――地理的・歴史的な文脈に位置づけなおす――毛利嘉孝 / 東京藝術大学大学院教授・社会学・文化研究/メディア研究週刊読書人2020年6月19日号(3344号)ポピュラー音楽再考 グローバルからローカルアイデンティティへ著 者:東谷護編出版社:せりか書房ISBN13:978-4-7967-0385-7編著者、東谷護による序文には「コンテンツと呼ばれるほど音楽は〈軽く〉ない」という副題が付けられている。七人の著者のポピュラー音楽をめぐる論考からなるこの本の主張をこれほど簡潔にまとめた一文はないだろう。 「音楽」がどんどん〈軽く〉なっている。このことは、音源データが映像データに比べて〈軽い〉からというだけではない。YouTubeのような画像共有サービスやSpotifyのようなサブスクリプション・サービスは、もはや個人が一生かけても聞ききれないほどの大量の音源を供給することを可能にした。 多くの人々はもはや自ら音楽を選択することをやめ、インターネットサービスが推薦するがまま音楽に身を委ねつつある。こうしたデジタル音源の聴取の経験は社会からも歴史的文脈からも切り離され、徹底的に個人化されている。 『ポピュラー音楽再考グローバルからローカルアイデンティティへ』。 なぜ再考なのか。それは、「音楽」が本来持っていた「豊潤な文化」を取り戻すために、再び地理的・歴史的な文脈に位置づけなおそうとしているからだ。 それぞれの論考は、一見すると時代も場所も、テーマもばらばらなように見える。ジャズとティン・パン・アレーという「記号」の歴史的変遷を丁寧に探るエドガー・W・ポープ。音楽評論家園部三郎の活動の中に「流行歌」の音楽における位置づけの変化をみる永原宣。音楽文化を媒介する空間として米軍基地を読み直す東谷護。ザ・タイガースにロックの日本的変容をみる周東美材。ラップにおける「ローカリティ」の重要性を再考する木本玲一。茨城の「ロックンロール」文化に地域のサブカルチャーを見出す大山昌彦。そして日米のポピュラー音楽系博物館を比較検証する山田晴通。 どれも独立した論考として読みごたえがあり、興味深い。けれども、この本の書籍としての魅力は、音楽文化がいかに聴覚以外のさまざまな体験から構成され、人々の生活や行動、考え方に影響を与えているのか、全体を読み終わったあとにあらためて感じさせることである。それは、私自身を含め人はどうして音楽にこれほどまでに惹かれてきたのかということを再考させるのだ。 二〇二〇年の音楽文化は、新型コロナウイルスの感染拡大とその対策によって記憶されるだろう。すでに多くのコンサートや音楽フェスティヴァルが中止になり、ほとんどのライブハウスやクラブは五月末時点で休業を余儀なくされた。 音楽は、コンサートやライブで経験するものではなく、オンラインでパソコンやスマートフォンを通じて視聴されるものになってしまった。それは、もはや「コンテンツ」とも呼べないほど断片化され、かつてないほど〈軽い〉ものになってしまったようだ。 緊急事態宣言が解除されてもしばらくは、コロナ以前のような音楽聴取はできないだろう。その間にも、これまでの音楽文化を支えてきた音楽の生態系とでも呼ぶべきネットワークやインフラストラクチャーが決定的に破壊されつつある。 その一方で、私たちの音楽経験は、これまで以上にデジタルネットワークによって包摂され、切り詰められている。新型コロナウイルスは、十年位かかるかもしれないこの進行を加速させ、わずか数カ月のうちに達成してしまった。 新型コロナウイルスの時代に、私たちは再び豊かな音楽の経験を取り戻すことができるのだろうか。本書には、そのためのヒントが隠されているように思える。(もうり・よしたか=東京藝術大学大学院教授・社会学・文化研究/メディア研究) ★とうや・まもる=愛知県立芸術大学音楽学部教授・音楽学(ポピュラー音楽研究)・文化研究。編書に『教養教育再考これからの教養について語る五つの講義』『ポピュラー音楽から問う 日本文化再考』など。一九六五年生。