――この厳しい時代を生きる世界中の人たちへ――歌代幸子 / ノンフィクション作家週刊読書人2021年2月5日号100歳ランナーの物語 夢をあきらめなかったファウジャ著 者:シムラン・ジート・シング(文)/バルジンダー・カウル(絵)出版社:西村書店ISBN13:978-4-86706-016-2 二〇数年前、私はシドニー五輪へ挑む女子マラソン選手を取材していた。アメリカで高地トレーニングする選手を追いながら、ボストンマラソンも観戦したことがある。毎年四月に開催され、海外のトップ選手から市民ランナーまで二万人ほどが走る人気のレースだ。 そのスタート会場で日本から参加したグループに出会った。全員七〇代前後のメンバーといい、その一人はかつてボストンマラソンで世界記録を出して優勝した山田敬蔵さんだった。若々しく元気な仲間たちが集まっていた。そこで山田さんの奥さまに「あなたも走っているの?」と聞かれ、「恥ずかしながら苦手で……」と答えると、「自分も走らなきゃ、良い記事は書けないわよ!」とひと言。その笑顔に背を押され、私もついに走り始めることになった。 毎朝、公園を走っていると、また違う風景が見えてきた。それぞれのペースでジョギングを楽しむ人たちがいて、季節の移ろいを肌で感じられる。小さなレースに出てみると、年代もさまざまな人たちと出会い、完走できた嬉しさから次の目標ができる。走るほどに、自分の心も軽くなっていくように思えた。 そもそもマラソンに関心を持ったのは、人は何でこんなに厳しいレースに挑むのだろうという疑問からだった。四二・一九五キロのフルマラソンは、アスリートにとって記録に挑む苛酷な闘いである。一方、マラソン人気が高まるなかで、市民ランナーもどんどん増えている。健康のため、仲間と走る楽しさなど、いろんなきっかけはあると思うけれど、走ることで何か大切なものが見えてくるのかもしれない……と。その大切なものをあらためて教えてくれたのが、この伝記絵本だ。 世界で初めて一〇〇歳の最高齢でフルマラソンに挑んだ実在のランナーの物語。いったいどんな強靭な人なのかと思うが、主人公のファウジャは生まれつき体が弱く、五歳まで一歩も歩けなかったそうだ。インドのパンジャブで生まれ育ったこの少年は、あるとき歩くことに挑戦しようと決意。お母さんは毎朝こう励ましてくれたという。「あなたのことはあなたがよく知っている。あなたにできることもね。今日は自分の力を出しきれるかしら?」 来る日も来る日も歩く練習をしたファウジャはついに歩き始める。さらに体を鍛えて畑仕事に励み、人生の道を懸命に切り拓いていった。やがて八一歳になると故郷を離れ、イギリスに住む子どもたちと暮らすことにしたが、家族は忙しく、言葉も通じない町でひとりぼっちに。そんなときテレビでマラソンを走る人たちを見て、自分もやってみようと公園を走り始めたのだ。 ファウジャはマラソンに挑戦し、八九歳でロンドン・マラソンを完走。その先に目指したのはなんと「一〇〇歳でフルマラソンを完走する!」ことだった。もちろんそれは大変な目標であり、毎日ひたすら練習に励む。信仰心が篤く、頭にターバンを巻いて走るインド人のファウジャは見た目の違いから差別の言葉を受けることもあった。それでも夢をあきらめず、自分の力を信じて走り続ける姿を見ていると、思わず手を振って応援したくなり、胸が熱くなってくるのだ。 この絵本には、一〇八歳になったファウジャ・シン本人の言葉が添えられている。健康と長生きのひみつは、「頭と体と心を強くすること」。そして「体をだいじにして、なにごとにも一生懸命とりくみ、壁にぶつかってもあきらめないでください」と。それはどんな困難にあっても、大切にしたいこと。今、この厳しい時代を生きる世界中の人たちへの応援メッセージでもあり、心に希望の灯をともしてくれるようだ。(おおつかのりこ訳)(うたしろ・ゆきこ=ノンフィクション作家)★シムラン・ジート・シング=アメリカの教育者・作家・学者・活動家。ニューヨーク市在住。