――かつてこの地を旅した作家たちの記録をひも解きながら――谷川ゆに / 著述家・古層作家週刊読書人2020年9月18日号サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する著 者:梯久美子出版社:KADOKAWAISBN13:978-4-04-107632-3「歴史の地層の上を走る」。本書、第一部・第一章のタイトルが示すように、サハリンは、大変ヘヴィな時間の層が折り重なる島である。「もともと、アイヌ、ニブフ、ウィルタなどの人々が暮らしていたこの島は、近代になると、東進するロシアと北上する日本がせめぎあう土地となる」。つまり近代国家は、自然や、そこに宿る神々と共に健気に暮らしていた先住民から土地を奪い、その折々の占領者の論理によって「国境」なるものを強い、自分たちの言葉で勝手に地名を挿げ替えてきたのだった。 著者は島に敷かれた鉄道を中心に旅をしながら、チェーホフや林芙美子ら、かつてこの土地を旅した作家たちの記録をひも解くことで、その重苦しい歴史の内部を、車窓の風景の中に探っていく。過剰な森林伐採、石油採掘、毛皮産業のための養狐場……そこに浮かび上がってくるのは、近代国家の発展に寄り添うように進行してゆく自然破壊と資源搾取であった。林芙美子は無尽蔵に木々が伐採され尽くした光景を「墓場」と表現している。またロシアの流刑地時代に来島したチェーホフは「サハリンは文字どおりの地獄だった」と述べた。 近代国家の競争と論理に揺さぶられ続けるサハリン島。ところが、なんとそのような場所に、どういうわけか亡くなった妹の魂を求め、情感あふれる美しい詩を読み綴りながら旅をした作家がいた。宮沢賢治である。かの有名な『銀河鉄道の夜』は、この時サハリンで乗った列車がモチーフになったと言われる。本書第二部は、「死者の魂を追いかけて北へ向かう汽車に乗」った賢治に焦点をあてながら進む。そして「賢治の頭の中にあったのは、この地に古くから暮らす先住民族やその祖先のことではないか」という結論に至る。つまり、賢治がサハリンを求めたのは、そこに古層的な「あの世」……近代社会から排除された先住民たちが結ばれていた前近代的なこころの世界――、自然に宿る小さな神々や精霊たちの世界――、を感受したからであった。時空を超えるような賢治の旅に、これまで開発・発展の名のもとに我々が自ら滅し続けてきた大事なもの、その一方でこころの深いところで求め続けてきた普遍的世界が見えてくる。 ちなみに、著者の梯氏本人は、現代的知性を身に着け、「ドラえもんポケット」のごとく便利グッズを携える、旅慣れた女性であり、二日間シャワーを浴びられない列車泊を「無理っす」と嫌がるイマドキ編集者が同行人だ。鉄道マニア、Wi-Fi、LINE、セブンイレブン……ときおり挿入される、軽妙で今風のエピソードこそが、まさに彼らが歴史的地層の最も表面を走っていることを実感させる。重たい時間的地層の上にいるのに、大半の読者が身構えずにサラリと読むことができるのは、このあたりの描写と構成の巧みさにあるのだろう。仮に私が、この島のような場に立った場合、おそらく、近代人、しかも日本のマジョリティとして産み落とされ、その恩恵の上に無自覚に生きている自分自身が、突然、黒々とあぶり出されるようで、ひどく苦しく居たたまれない気持ちになるだろう。しかし著者は自身の「イマドキさ」に苛まれることなく、軽やかに歩む。そしてそういう彼女を、土地のガイドたちが優しく迎える。彼らは、ロシア人だったり、あるいはモンゴル系の民族がルーツだったりするのだが、掛け値なしに親切だったり、そのことに御礼を言うとシャイに顔を赤らめたり、「話が途切れるといきなり歌い出」したりする。そのようなやり取りには、著者が現地で浴びた、ピュアで温かい人々の情愛が滲むように出ている。 ああ、現代に蔓延する金縛りのごとき呪詛ではなく、こういう人間同士のやさしさがふと交差するなかに、近代によってもたらされた「国境」を溶解し、賢治のいうところの「ほんとうの幸福」につながっていくための小さな破片が、もしかしたら、ひっそりと隠れているかもしれない。……これは私の感想ではなく、半ば祈り、だ。(たにがわ・ゆに=著述家・古層作家)★かけはし・くみこ=ノンフィクション作家。編集者を経て文筆業に。二〇〇五年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞)など。一九六一年生。