――「自明のこと」に疑問を呈し、追求する――小谷野敦 / 作家・比較文学者週刊読書人2021年2月12日号近世の遊廓と客 遊女評判記にみる作法と慣習著 者:髙木まどか出版社:吉川弘文館ISBN13:978-4-642-04334-2 元英文学者で、部落史研究者であった沖浦和光が、その晩年、自分は遊女が聖なるものだと考えたい、そういう本を書くと書いていたので、私はハガキを出して止めたことがある。沖浦はついにそれは書かなかった。なお私が理解する限りでは「聖なるものである」というのは、「聖なるものであると中世や近世の人々が考えていた」ということで、それは人口の半分以上がそう思っていたと定義される。学問的議論であって、個人的感懐ではないのだ。 対話は大切だが、遊女美化論者とこれを否定する論者の間には、対話が成立していない。前者は批判に答えない。それだけではなく、否定論者の中にも、そのような非学問的なものは触れてはいけないとばかり「無視」する者もいて、対話不在に拍車をかける。本書の著者・髙木まどかは、歴史学者でありながら、そんな中にあって珍しくも、近世の遊廓礼讃論をまとめ、これに疑義を呈している。天晴れなことである。 だが、研究である以上は、その焦点を絞り込む必要があり、近世遊廓礼讃論のうち、「遊廓は外の世界の身分を問わない別天地である」というテーゼが本当かどうかということに焦点を当て、遊女評判記を主な史料としてこれを詳しく探っている。その結果、登楼しようとする男の友人が馴染みである遊女には上がらないといった「さし合」があり、歌舞伎役者・浄瑠璃役者(おそらく太夫・人形遣いであろうが、作者はどうなのかまでは記されていない)も身分上制外者であることなどを理由に忌避され、ただし客の太鼓持ちとしての登楼なら許されたこと、さらには被差別民も、はっきりした幕府の法としてではないが忌避されたことを、長崎犯科帳などを史料にして探っていく。著者の博士論文をもとにしているが、文学と歴史学と双方にわたり、論点の整理や論述はゆるいようで実はしっかりしており、先行研究や資史料は幅広く網羅され、見事なできばえである。 著者の真骨頂は、普通の学者ならそこで立ち止まってしまうところを、さらに押し詰めて「なぜ」と問うところにある。私もまた、さらに追及できるところを思考停止していたことに気づくありさまで、当初は、深く考えすぎではないかと思うが、実はそれこそが必要なことだったと分かる。著者ははじめ、ためらいもなく遊郭で遊ぶ男たちの内面が理解できず研究を始めたと言っている。それは自明のことと思われてきたが、そこをさらに追及したわけである。なお「遊廓別天地」論に疑念を呈した研究者として中野三敏の名があげられている。 実は、忌避された客という主題はあくまで本書の入り口、ないしは仮の姿であり、これは近世遊廓研究のガイドのような書物で、実証的な遊廓研究の手本になっている。先行研究の整理も行き届いており、私などは「遊女評判記」と西鶴の関係を示唆したのが饗庭篁村の関根正直宛の手紙でそれが関根の『小説史稿』に載っていることを本書で知った。もっとも、西山松之助の浄閑寺の過去帳の分析については、著者は触れていないが平均寿命の計算に疑義が出ているので(拙著『日本売春史』に記した)、遊女が若くして死んだという点には触れているから、そこはちょっと気になった。 さらに、実証的な研究であってもある程度、近世遊廓の論じられ方を問題化することによって評価の軸を定められるということを明らかにしている。遊廓へ行く男たちが、連れ立っていくことをよしとしたという点にホモソーシャル性を見出すあたりもそうだし、「さし合」があった時に、客や揚屋がしたことであっても遊女に責任が着せられたという点について、「客らが都合良く日常を守るにあたって、責任の所在を見出されやり玉にあげられたのは他でもない遊女であった」と、遊女評判記が客という男たちの視線に沿って作られていることを指摘している点など鮮やかである。 著者の探求は今後も続けられるだろうし、私は大いに期待したいのだが、一方で、女性研究者でも遊女の聖性を見出してしまう人がいるのはどういうことなのか、という論点は、しかし実証的な著者の課題ではないだろう。さるにても、三十二歳という若さの、このような研究者が登場したことが、私は本当に嬉しいのである。遊廓・遊女美化論に対する頂門の一針となるであろう。昨年の沢山美果子の『性からよむ江戸時代』(岩波新書)のように、髙木まどかの知見が広く社会に読まれ、受け入れられる日が来ることを願うばかりである。(こやの・あつし=作家・比較文学者)★たかぎ・まどか=国文学研究資料館プロジェクト研究員・徳川林政史研究所非常勤研究生・成城大学民俗学研究所研究員・日本近世史・遊廓。