――自分はアホ。そして人生は寂しい――宮崎智之 / フリーライター週刊読書人2020年1月17日号しらふで生きる 大酒飲みの決断著 者:町田康出版社:幻冬舎ISBN13:978-4-344-03532-4 断酒について書かれたものは多数あれど、なぜ酒をやめたかについて、ここまで考えを巡らせた作品は少ないのではないか。『しらふで生きる大酒飲みの決断』は、酒徒で知られた作家の町田康が、三十年間一日も休まず飲み続けた酒をやめた理由を探る思考録である。 酒は過度に飲み続けると体に悪いことは誰でもわかっているが、一方で人間関係を円滑にするなどの利点もあり、日本ではことあるごとに酒が飲まれ、社会や生活と切っても切れない関係となっている。創作する者にはことさら酒はある種、特別なものとして崇められる。町田が本書で言及した中原中也には、酒席で中村光夫の頭をビール瓶で殴ったという「伝説」が残っている。そういったエピソードは、作家の人間性や交友関係を知るうえで、読者にも愛され続けてきた側面がある。 作家と言えば酒。そんな幻想がある反面、当然だが、酒で身を持ち崩す者も多い。町田はそうなる前に断酒を決意したのか。もちろんそれもあるだろうが、本書では体を壊した、人間関係が悪化したという、読者が納得しやすい理由はあまり語られない。突然、ある日、唐突に町田は「酒をよそう」と思ったのだ。 冒頭から、いつもの「町田節」で断酒について語られる。啓蒙的でもなく、ましては自己憐憫などでは決してなく、なぜ自分がそんなことを思ってしまったのか。ほとんど屁理屈に思える語り口で、思考を展開させていく。 おそらく読者が一番訝しく思うのが、酒をやめるという判断を「狂気」、酒を飲み続けるという判断を「正気」としている点であろう。だが、これを屁理屈だと思う読者は、酒をやめられなくなるほど飲み続けたことがない者か、もともと酒を飲めない者かのどちらかである。なぜなら、この書評を執筆している私自身が大酒を飲み続けた挙句、アルコール依存症と診断されて三年半ほど断酒しているからわかるのだ。町田の主張が至極真っ当なものである、と。 私が酒をやめてから実感したのは、「常に正気でい続けることの狂気」である。酒に溺れる者にとって、現実はあまりにも明け透けで、人生はままならない。だから酒を飲む。それが酒徒にとって、「正気」の判断なのだ。 酒をやめてだいぶ経ってから、酒のない人生も悪くないと思うようになった。しかし、ふとしたきっかけであの酩酊感や全能感への誘惑が襲ってくる。町田も誘惑と戦っているという。本書を読んで納得しっぱなし、共感しっぱなし、評者としては心の距離が近すぎる自分にどうしたものかと悩んでいたところ、ある言葉が目に飛び込んできた。「酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい」。これには一度心を突き放されつつ、最後は町田の言葉に首肯せざるを得なかった。私たちは自分の存在を、人生を、高く見積もり過ぎているのではないか。どこか自分を「特別な存在」だと思っている節があるのではないか。だから嫌なことがあったり、自分の存在を蔑ろにされたと思ったりすると、酒を飲み、その帳尻を合わそうとする。「私には幸福になる権利がある。酒くらい飲ませろ!」と。 しかし、その思い込みから脱すれば、そもそも人生とは厳しく、寂しいものだという当たり前のことに気がつく。町田は酒をやめるための要諦について、「自分は普通以下のアホである」という正しい認識に基づいて「自己認識改造」を繰り返し実行することだとする。 これは、過度の飲酒に悩む者以外にも必要な自己認識である。自分はアホ。そして人生は寂しい。本書はもともと『小説幻冬』に連載されたもので、その際のタイトルは「酒をやめると人間はどうなるか。或る作家の場合」だった。その問いに評者として答えるならば、酒をやめても町田節は変わらずに健在であるどころか、さらに冴え渡っているように思う。(みやざき・ともゆき=フリーライター) ★まちだ・こう=小説家。著書に『くっすん大黒』(ドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞)『きれぎれ』(芥川賞)『権現の踊り子』(川端康成文学賞)『告白』(谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(野間文芸賞)『ギケイキ』『湖畔の愛』など。一九六二年生。