――闇の深さ、悪、暴力、トラウマの継承…そしてわずか許しに似た――谷崎由依 / 作家週刊読書人2020年7月17日号(3348号)猫を棄てる 父親について語るとき著 者:村上春樹出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391193-9ささやかな書物だ。ほとんど手のひらに収まるくらいの。ノスタルジックな挿絵が施され、語りかけるような文体は穏やかだ。けれども軽い本ではない。村上文学を読み続けてきた者には、その重さの意味するところが伝わるはずだ。村上春樹が、父親について語る。そしてその核心には、満州での戦争体験がある。長いこと不在の中心だった何か、語られることはないけれども確かにあることが感じられてきた、そのような何か。村上作品を読んでいると、このひとはいったいどんなふうに育ってきたんだろうと思うことがある。たとえば『ねじまき鳥クロニクル』を、今回ひさしぶりに読み返したのだが、そこに描かれた闇の深さに呆然としてしまった。つまりこのようにも深く、人間の闇に潜ってゆける、潜ってゆこうとする心性というのは、どんなふうに培われてきたのかと。 『猫を棄てる』は、そのおおきな要素であるはずの父親との確執を、つまびらかに書いたものではない。「二十年以上まったく顔を合わせなかった」というのは、なかなかにすごいと思うのだが、なぜそうなったかという具体的な経緯は、「生々しい話」だからと省かれている。この本に描かれているのは、ひとりの人間としての父だ。父親であるという、著者から見たその役割を離れて、彼がどのようにして育ち(養子として余所の寺に出された、言わば「棄てられた」生い立ち)、陸軍に徴兵され、中国大陸での戦闘へと駆り出されていったか。著者自身の誤解と、それに起因する心的葛藤、そして父の死後それらが解きほぐされ、あらためて見えてきたもの。そうしたもので、本書は成り立っている。 誤解というのはこうだ。村上の父は最終的に歩兵第二十連隊に所属していた。南京陥落の際に一番乗りをした部隊である。それゆえ著者は自分の父が南京での殺戮に荷担したものと思い込んでいた。結局そうではなかったことがわかるのだが、長いあいだのその思い込みと、そしてもうひとつの事柄――父から語られたある記憶とが、触れることのできない中心のように、著者のこころに影を落とし続けていたものと思われる。その記憶とは、中国人の捕虜を軍刀で処刑したというものだ。父親は毎朝、家の菩薩像に向かって、その捕虜と死んだ仲間の兵士たちのためにお経をあげていたというのだった。 満州国の首都・新京で、日本軍の兵士たちが中国人の捕虜を処刑する場面が出てくるのが『ねじまき鳥クロニクル』だ。村上作品の年譜において、この長篇は特異な位置を占める。それは壁抜けの物語である。実際に作中で壁を――ホテルの壁、また夢と現実の壁――抜けるものであると同時に、それまで作者が出ようとしなかった閾を、意識的に外部へと踏み越えるようなところがある。その印象は、ひとつには歴史を、とりわけ日中戦争を中心的なモチーフとしていることに起因するだろう。そしてまたもうひとつには、主人公であり語り手の「僕」みずからが、得体の知れないもの、もしかすると悪かもしれないものになっていく、その過程にあると考える。 自身のなかにある悪、または暴力。何かの蓋を開けてしまったようなこの物語の、種子は少年・村上春樹が、父の口から語られる中国人捕虜の斬首を耳にしたときに、あるいは撒かれたのではないか(加えて南京大虐殺にも荷担したと思い込んでいたのだ)。トラウマの継承、と著者は書く。父親のそのような経験を、否応なく自身の問題として受け止め、抱え込んできたことが、村上文学の核のひとつとなっているのかもしれない。その重たく暗いものを解きほぐし、歴史に翻弄された青年としての父の姿を思い浮かべるとき、自身の存在もまた何か不思議なものとして捉え直される。宙空で風を捉えるような刹那の均衡に支えられた、その認識はほんのわずか許しに似ているかもしれない。(高妍イラスト)(たにざき・ゆい=作家) ★むらかみ・はるき=作家。七九年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。主な長編小説に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)など。多くの短編集やエッセイ集、翻訳書がある。一九四九年生。