――〈見える〉言葉で翻弄させ、見えない〈拳〉の中を探る――佐藤飛美 / 在野研究者・英米文学週刊読書人2020年11月6日号目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙著 者:ジョージナ・クリーグ出版社:フィルムアート社ISBN13:978-4-8459-1919-2「見える」と「分かる」は別物だろうが、“Seeing is believing.(百聞は一見に如かず)”という表現は、隣の人は火星人だと忘れている節がある。それどころか、自分の目や脳に欺かれる可能性も、理解に視覚情報を必要としない人の存在も、どうやら念頭にないようだ。 このことわざも出てくる映画『グランド・イリュージョン』の原題は、マジシャンの常套句“Now You See Me.(見えていますね)”だ。通常、この言葉の後には、何らかのマジックが起きて“Now, you don’t.(はい、消えた)”と続く。ダニエルは「よく見えていると思うほど、だましやすくなる」「近づけば近づくほど、逆に見えなくなる」と言う。 本書にも共通点がありそうだ。著者の怒りの目的と行方を探りながら慎重に読み進め、状況を理解してきたと感じた次の瞬間に、「いくつかでっち上げています」などと明かされ、頭の中の情景が消えてしまうのだ。五感に訴える描写ゆえに幻視できてしまうから、肩透かしを食らった気分になる。読み始めてすぐに「疎外感」「置いてきぼり」という印象をもった。著者のミスディレクションという仕掛けで容易に迷子になった私は、ヘレン・ケラーも障害もほぼ無知で「見えていない」から「疎外感」を感じるのだろうか。 その可能性は否定しないが、俯瞰すると「疎外」「除外」は本書の鍵であるように思う。まず、本書は著者とヘレン間の「対話」であるので、日記や手紙が本来は第三者の目を意図していないように、二人の間で閉じている部分がある。「あなたには分かるでしょう」「私には分かります」といった断言は、こちらを「疎外」している。また、史実として、ヘレンは先生と密な関係性を築いていたため、この二人の間に入り切れず、「除外」された人々がいた。ヘレン自身、別の生き方さえも「除外」していた可能性がある。そして、著者もヘレンも、視覚障害ゆえに「見える」などの感覚表現の使用が不適切と指摘され、ヘレンに至っては自分の考えを表現できる能力さえ疑われて、人間としての権利も奪われてきたようだ。さらには、ヘレンの関連作品を障害学の参考文献リストに積極的には入れたくない障害者当人たち。大勢の人がいる場では受け身で「除外」されていると認める著者。最初から懸念事項として漂っていたが、そもそも「ヘレン・ケラー神話」の重要人物は……。 著者の怒りのぶつけ方や煽り方はなかなか激しく熱い。特に「性」に関する追及は執着めいていて、原題通り、“blind rage(盲目の怒り)”の可能性を疑いたくもなる。一方、靄の中で困惑していても、怒りの矛先が本当はこちらに向いているのだと気が付き、凍り付く場面が多々ある。そうした熱さも冷たさも極度までいくと「痛み」に変わるものだ。著者の孤独、自分で自分を誤った「疎外」へと導きたくなる誘惑への抵抗、必死でヘレンを守ろうとする言葉や態度。どれも火傷か凍傷か判別できぬ鋭い痛みを心に刻み、それが教訓として残る。著者の口調はヘレンのためとは「見えにく」く、これもまたミスディレクションだ。本書にはぬるさがない。 とは言え、著者のミスディレクションに惑わされ、迷子になるのもまた一興だろう。言葉だけを頼りに、頭の中で柔軟に情報を修正し、空白を残しつつ真相を探す「苦労」をするには、相応の価値があると思う。 慣れない頭の使い方だが、近道を選ばず、自力で靄の外に出ようとすることで、視覚障害者の世界観に歩み寄っている可能性があるからだ。そして、固く握られた故人の「拳」の中身を探るために、著者は読者にも「拳」の中に何かがあると思わせて見せ、最後には彼女の手を取る。私たちはその見届け役なのだ。 初読時から、脳内の書庫では、本書をダン・ブラウンの小説シリーズの隣に並べている。ジャンルの誤りを指摘されるだろうが、それこそ私のような読者を「除外」しかねず、もったいない。この並びに、私の「見える」が反映されている。(中山ゆかり訳)(さとう・あすみ=在野研究者・英米文学)★ジョージナ・クリーグ=カリフォルニア大学バークレー校英語講師・クリエイティヴ・ライティング・障害学。