――ポスト・ブレグジット小説として――河野真太郎 / 専修大学教授・英文学週刊読書人2020年7月3日号(3346号)秋著 者:アリ・スミス出版社:新潮社ISBN13:978-4-10-590164-6ブレグジット(英国のEU離脱)は陳腐である。そのキャンペーンに付随した言葉たちは、排外主義的なヘイトや真実であるかどうかはお構いなしの煽動に彩られたものだった。それは文学の対極にある言葉たちだった。 しかし、陳腐さ──トランプや日本の右派ポピュリズムに共有された陳腐さ――に対抗して、「文学」を置けばそれでいいのか。ロバート・イーグルストン編『ブレグジットと文学』で、文学研究者リンジー・ストーンブリッジは警鐘を鳴らす。EU離脱を後押ししたのは、陳腐と文学とを切り分ける文化の階層秩序、そして後者を独占するエスタブリッシュメントへの反感ではなかったか。陳腐/文学の区分を再生産することは、陳腐さへの抵抗にはならない。 そのような困難にもかかわらず、ブレグジットの陳腐さに取り組む勇気をそなえた文学作品は、ある。その一冊が、「最初のポスト・ブレグジット文学」として評価され、ほかならぬイーグルストンが審査委員長を務めた二〇一七年のブッカー賞で最終候補となった、アリ・スミスの『秋』である。 アリ・スミスはスコットランド生まれの作家で、『両方になる』(新潮社)ではコスタ賞など様々な文学賞を受賞した、英連邦を代表する現代作家の一人である。『秋』の主人公エリサベス・デマンドは三〇歳過ぎの美術史研究者で、ロンドンで非常勤講師をしている。物語の軸は、彼女の隣人で、現在は昏睡状態で施設に入っている、齢百歳を超えるダニエル・グルックとの「交流」である。語りの現在時は二〇一六年六月のEU離脱国民投票の直後から同年の一一月まで。だが、エリサベスの回想やダニエルの夢想は、エリサベスの育った一九九〇年代や、ダニエルの子供時代の一九三〇年代まで自由闊達に行き来する。 作品は、フランス系とドイツ系の名前を持つ人物を中心に据えつつ、「故国(ホーム)に帰れ」という落書きをされた家や発行されないパスポートなど、ブレグジットの英国の雰囲気を表現する事物に確かにあふれている。 だがこの小説がいかにして「今」に対峙しているかということは、ダニエルとエリサベスの出会いのエピソードに表現されている。ダニエルの隣に引っ越してきた八歳のエリサベスは、学校の宿題のためにダニエルにインタビューをしようとする。その宿題とは、「隣同士で暮らすことの意味を考えるための、歴史の宿題」(原文はIt’s about history, and being neighbours)。この小説は、隣人という最小単位の他者との関係と、回想シーンで重層的に表現される、現在へとつながる歴史とを対位法的に織り合わせるのだ。ブレグジットは、隣人との間に、「新たな種類の距離感」(翻訳は「今までとは違う冷淡な口調」)を生み出した。その新たな距離感は、ブレグジットの陳腐な政治が個人の水準で表現される最小単位であろう。 これ以外にもこの小説は、世代を超えたフェミニズムの系譜、難民問題といったブレグジットにも関わる政治的な問題を、主人公エリサベスの人生の物語に違和感なく乗せて「私たちの現在」の問題として提示していく。 『秋』が、ブレグジットの「陳腐さの困難」を乗り越える作品であるかどうかは、読者の判断を、そして続編である『冬』『春』(ともに既刊)そして『夏』(本年夏に刊行予定)の展開を待つ必要があるだろう(訳者の木原善彦氏は続編も訳したいと述べており、評者としても実現するのを願っている)。だが、『秋』はそれ独立で、陳腐な現在について文学が勇気をもって語るための方法を、十分に示してくれている。(木原善彦訳)(こうの・しんたろう=専修大学教授・英文学) ★アリ・スミス=作家。スコットランド・インヴァネス生まれ。デビュー短篇集Free Love and Other Storiesでサルティア文学新人賞、長篇The Accidentalでホイットブレッド賞、『両方になる』でゴールドスミス賞、コスタ賞、ベイリーズ賞受賞。一九六二年生。