――新しい文学を評価し、普及させる――文化を、感性を、思考を、未来を変える行為――藤田直哉 / SF・文芸批評家週刊読書人2021年1月22日号絶体絶命文芸時評著 者:佐々木敦出版社:書肆侃侃房ISBN13:978-4-86385-415-4 文芸時評というのは、しんどい仕事である。村上春樹の言葉を借りれば「文化的雪かき」だ。毎月毎月、文芸誌掲載や単行本などにアンテナを張り、目を通して、論じなければいけない。自分の趣味や価値観に合わないものも、理解しようとする努力をしなければならない。時の試練を経て選別された名作を読むのとは違う、頭の使い方が必要なのだ。うっかり後世で高く評価される作品に低評価を与えてしまうと、「文学を分かっていないバカ」の代表として名指しされ何十年も晒し上げされかねない。 その苦労と複雑さの割に、世の中からのリアクションが少ないという悲しい仕事である。自分がやっているときには孤独感と無意味感と戦い、モチベーションを上げるための努力を様々に工夫しなければならなかった。 今回、佐々木敦氏と、仲俣暁生氏の二人の「文芸時評」をまとめた本を読んだ。対象は、主に二〇一〇年代の文学作品で、「文学」の定義は、前者は主に文芸誌中心。後者は、人文書やサブカルチャー的なものや外国文学も含む広いものだ。文芸時評の苦労や疲労の痕跡は偲ばれたが、読者として読むと、色々と刺激を受けるものだった。同時代の文芸誌などを、連続的かつ体系的に読んでいる人間というのは、そう多くはない。だから、その立場だからこそ見える固有の問題や、知見がたくさんあるのだ。 何が話題になっており、何が問題で、何が論点なのかを知ることもできるし、どんな作家が何を書いているのかも知ることもできる。実際、読んでいる途中にスマホをいじり、何冊か本をネット書店で注文していった。新しい作家や論点との出逢いは、知見や思考を広げてくれる。時には、大きな人間的な成長や、世界観の根本的な転換すら引き起こしてくれるかもしれない。そのような出会いを期待して歩く時の地図のような、ガイドブックとして、これら二冊の文芸時評は大変刺激的な書物だった。 佐々木敦『絶体絶命文芸時評』は、創作に手を染めた佐々木の「たぶん最後の文芸時評」である。新聞に掲載された五年分の文芸時評と、文芸評論を掲載し、さらに書評家・倉本さおりとの対談が収録されている。二人の文芸時評担当者が赤裸々に語るこの対談は、彼らがどのような使命感を担ってこの仕事をしてきたのか(いるのか)がよく分かり、興味深いものだった。 佐々木は文芸誌という場を維持し、そこでしか生まれないような作品を擁護する。だから、彼はそういう作家たちを積極的に世の中に紹介し、評価していく。その保護者的な使命感に、感じ入るところがあった。思えば、評者もまだ無名の駆け出しのころに、佐々木氏と対談をさせていただいたり、連載の中で拙著を紹介していただくなど、大変お世話になった。その当時は、若すぎて、ちゃんと感謝を示すことができていなかったが、この場を借りて、改めて、深くお礼を申し上げたい。 仲俣暁生『失われた「文学」を求めて』は、遠ざかっていた同時代文学への「リハビリテーション」でもある一冊だ。「リハビリ」だけあって、著者自身の率直な疑問や不満、葛藤などがダイレクトに出ているのが好ましい。 一九九〇年代以降の同世代作家たちにコミットしてきた仲俣は、東日本大震災によって、小説を素朴に読めなくなってしまった。文学のモードも、社会のモードも、仲俣自身も変化してしまったのだ。繰り返される問いは、「政治と文学」、それから、いわゆるポストモダン文学の功罪である。震災後に急速に変化した日本文学への戸惑い、とも言える。 高橋源一郎や村上春樹の、一見非政治的な小説は、六〇年代、七〇年代の政治の季節の傷跡を抱えている文学だったことを、仲俣は繰り返す。それは、震災以降の、倫理主義化し、軽やかさをなくした日本文学への問いである。単純な意味での「政治的」な小説への違和感を示しつつ、仲俣は「新しい政治小説」のあり方を手探りしていく。自身がコミットした文学観への疑問も抱きながら、同時代文学を吟味していく、逡巡に揺れる姿勢は、率直な一人の人間の姿が見えて、好ましい。感動的なのは、後半に行くにしたがって、筆致や評価に確信が宿ってくるところである。 私的な話をすれば、評者が現代文学を面白いと思ったのはゼロ年代であり、この二人が積極的に推してきた、村上春樹以降、阿部和重以降の文学者たちに出会ったからだった。札幌の郊外に八〇年代に生まれ、インターネットの発展と共に育った評者にとって、いわゆる日本の伝統文化や、近代文学で描かれている内容と、自分の経験している世界には大変距離があった。自分のような生活をし、悩みや葛藤を持った人間が出てくる作品に、この時代の日本文学で初めて出会った。それで現代文学にコミットすることになった。これらの作家や作品を押し出すムーブメントには功罪があったかもしれないが、少なくともぼくはとても深く感謝している。 新しい作家や作風を評価し世に知らしめる努力は、「政治的」でもあったし、批評的な「賭け」でもあっただろう。これまでの感性から切れた、新しい文学を評価し、普及させることは、大袈裟に言えば、日本文学のみならず、文化を、感性を、思考を、未来を変える行為でもあっただろう。これらの書物には、長い間それを行ってきた二人が、二〇一〇年代の文学に出逢い、戸惑ったり高揚したり、あるいは反省した痕跡が、時に鮮やかに、時に密やかに残されていている。呑み込んだ言葉もたくさんあっただろうが。 雪かきは、地味で大変な仕事である。だが、豪雪地帯では、雪かきがなければ、道を歩くこともできない。家と家は孤立し、アマゾンもウーバーイーツも届かない。雪かきは、地味だが、実は基本的なインフラのようなもので、それがあってこそ交通が成立し、生活や文化が成り立つ。道が通じることによって初めて、広大な開けた世界を知る者も少なくないはずだ。これからも、きっと、そうだろう。(ふじた・なおや=SF・文芸批評家)★ささき・あつし=HEADZ主宰。文学ムック「ことばと」編集長。著書に『絶対安全文芸批評』『文学拡張マニュアル』『批評時空間』『筒井康隆入門』『新しい小説のために』『私は小説である』『これは小説ではない』『批評王』など。一九六四年生。★なかまた・あきお= 評論家・編集者。著書に『ポスト・ムラカミの日本文学』『極西文学論 Westway to the world』『〈ことば〉の仕事』『失われた娯楽を求めて極西マンガ論』、共編著に『編集進化論―editするのは誰か?』など。一九六四年生。