藤岡未有生 / 上智大学文学部英文学科二年週刊読書人2020年5月8日号(3338号)青い眼がほしい著 者:トニ・モリスン出版社:早川書房ISBN13:978-4-15-120006-9幼い頃、「自分が嫌いだ」とノートに書きなぐったことがあった。もし、あの頃の自分に何か言えるなら、私は『青い眼がほしい』のことを話したいと思う。 本作は人種差別の現状を大胆かつ繊細に切り取った作品として認識されている。だが、私は読み進めるうちに不思議な感覚に陥った。黒人であるが故に傷つけられ、また自分自身を否定する人々の痛みが手に取るようにわかり、差別に立ち向かう黒人の少女に親しみを抱いたのだ。というのも、差別を扱うこの作品が、誰もがもつ感情を描く「私の物語」でもあるからだと思う。 この物語では、複数の黒人の登場人物たちの視点で彼らの日常や生い立ちが語られる。読者は語り部たちの正直な告白を通して人種差別の実態を知ることになる。例えば少女ピコーラが青い眼を手に入れたいと切望する姿や、勇敢な少女クローディアが黒人である自己を否定する人々に抵抗する姿を私たちは目の当たりにする。そして物語は、実父チョリーに強姦され、流産したピコーラが「青い眼を手に入れた」と夢想する場面で幕を閉じる。 このようなあらすじを聞くと、一見私たちとはかけ離れた人々の話に思えてしまう。しかし、チョリーの行動や、ピコーラの青い眼への執着、クローディアの反抗の根底には私達にも共通する感情があるのだと思う。 まず、私にはチョリーの強姦がまるで自傷行為のように思われる。黒人であることの恥ずかしさに支配された彼は自らの分身、娘を傷つけることで彼女を愛し、彼自身が生きている感覚を得ている。このようなチョリーや、ピコーラの中の社会に影響された価値観は、かたちは違いこそすれ、誰もがもっているものではないかと思う。黒人差別が当然の世界で育った彼らはそのような価値観が自分の中に刷り込まれていることを知らない。当たり前を疑うことなく生きるしかない彼らと同様に、私たちも社会が生み出した価値観に沿うことを生きる術としているのだ。 一方対照的なのがクローディアである。彼女は、黒人は白人に劣ると考え、白人に憧れる周りの黒人の人々に対し、白人のドールを壊し、「クリスマスには何が欲しいか、きいてくれる人がだれもいなかったことは、はっきりわかっていた」と悲しみ、流産したピコーラのために祈ったりする。一人の人間として愛されたいと切望し、人を愛することで、他者とつながろうとしているのだ。このような感情もまた、誰もが体験したことがあるだろう。誰かのために、という優しい気持ちや、愛されたいという願いはどんな人でも抱く普遍的な感情だと思う。 最後に、『青い眼がほしい』が黒人差別の物語でありながら、「私の物語」でもある理由を考えたい。それは、この物語に描かれている劣等感や愛情が、人が他者と共に生きることと切り離せないからだ。クローディアが他者を気遣い、愛情を求めたように、つながりがあるからこそ得られるものがある一方で、ピコーラとチョリーが抱えた自己嫌悪は、人の間でしか生まれようがない。他者の評価に振り回され、人と比較すれば劣等感に苛まれ、多数派の価値観から抜けだせない。つまり、本作は、人と人の間で生きる、あるいはそこでしか生きることのできない苦しみや優しさを描いている。ピコーラ、チョリー、クローディアは私たちでもあるのだ。 私たちはこれからも他者に振り回され、苦しみ続けるだろう。それでもつながろうとするのは、そこに救いがあると思わずにはいられないからではないだろうか。 あの「自分が嫌いだ」という走り書きには続きがある。母が書き加えた「ママはあなたが大好きだよ」という言葉だ。いつか私もそんなふうに誰かを思いやることができるだろうか。(大社淑子訳)★ふじおか・みゆき=上智大学文学部英文学科2年。文学、ファッション、音楽などに関心があります。最近読んだ本はイプセンの『人形の家』です。