――全ての固定観念や属性やアイデンティティに 否を突きつける――川本直 / 文芸評論家週刊読書人2019年12月13日号改良著 者:遠野遥出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02846-0小説は未だ言語化されていない事象を描く時に絶大な威力を発揮する。ジャーナリズムや批評、研究といった領域で既に議論されている問題をなぞっただけの小説は価値がない。そういった後知恵は世界を分析するが故に意義があるが、小説はそれ自体で世界を提示するものだ。優れた小説は言語化されていない周縁的な人の有り様を虚構としてもたらす。遠野遥の『改良』は正にそういった小説だ。 「私」は小学生の時、スイミングスクールで一緒だったバヤシコというあだ名の同い年の少年に「男らしくない」という理由で女扱いされ、性的暴行を受けた。 大学生になった「私」は密かに女装を始めている。「私」が女装するのは女になるためではないし、男の気を惹くためでもない。美しくなりたいだけだ。しかし、何故美しくなりたいかは自分にもわからない。美しい人間に強い劣等感を覚える「私」が関わっているのは、アルバイトの同僚で「ブス」を自認するつくねと、デリバリーヘルスから時々呼び寄せて性行為をする「地味」な容姿のカオリというふたりの女性だけだ。 男と見抜かれないほど女装に熟練してきた「私」は女装で外出するようになり、女の格好をしているのを見てもらおうとカオリを呼び出すが、カオリは「私」を「変態」呼ばわりして言葉責めプレイに及ぼうとする。怒りに駆られた「私」は外に飛び出す。「私」は路上でナンパをしていた見知らぬ男に声をかけられ、トイレに連れ込まれて過去の再演のように性行為を強要される。 しかし、このストーリーから『改良』を既存の型にハマったジェンダーを巡る小説と捉えるのは全くの誤りだ。ジェンダーやセクシュアリティの専門用語は慎重に悉く排除されている。安易に「トラウマ」などという言葉が持ち出されることもない。『改良』はあらゆるレッテル貼りを拒否し、「私」はどの属性にも自己を同一化することを拒否している。例えば「私」は地の文では「私」という一人称を用いているが、人と喋る時は「俺」を使っている。「私」をつくねは「山田」と呼び、カオリは「ミヤベ」と呼ぶが、いずれも「私」の本名ではなく、主人公の名前は最後までわからない。 加えて、男性はマチズモやホモソーシャナルな絆によって、自らが受けた性的虐待をなかなか語ることができないが、『改良』はそれをも虚構として描き切っている。評者も『改良』の「私」と同じく小学生時代に性的暴行を受けたが、これまで文字にすることさえできなかった。 しかし、『改良』が優れた小説なのは主題の選択とその語り方のみにあるわけではない。構造には劇的な緊張感が漲っており、テネシー・ウィリアムズの作品の迫真性を思い起こさせる。文体は一貫して冷徹で、つくねの容姿の描写に至っては残酷と言ってもいいほどだ。それでいて「私」の物の見方は生まれて初めて目を開き、世界の奇妙さに驚く子供のように純粋でもある。比喩もユーモアすら感じさせるシュールなものばかりだ。男性器は「恵方巻」や「小籠包」に喩えられている。トイレへの異様なオブセッションも見逃せない。 青白く燃える炎はその色彩から一見冷たく思える。『改良』はあたかもその青白い炎のようだ。クールで巧みな文体の底には激しい怒りがある。この小説は全ての固定観念や属性やアイデンティティに否を突きつけている。遠野遥はこれから始まる二〇二〇年代を代表する小説家のひとりになるだろう。(かわもと・なお=文芸評論家)★とおの・はるか=慶應義塾大学法学部卒業。東京都在住。2019年『改良』で第56回文藝賞を受賞しデビュー。1991年生。