サウンド・スタディーズの成果、多様な「音」が鳴り響く 毛利嘉孝 / 東京藝術大学教授・社会学・文化研究・メディア研究週刊読書人2022年2月4日号 音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー著 者:細川周平(編著)出版社:アルテスパブリッシングISBN13:978-4-86559-240-5 圧倒的である。 六〇〇頁を超える大著には、国内外の研究者による三二本の論文と特別ゲスト一〇本の論文が掲載されている。『音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー』と題され「音響と聴覚」をテーマに集められたという論考は、どれもこれも面白い。「音と耳」から世界を捉え直すことで、これほどまで新しいものの見方ができるのか。どの論考も驚くべき発見に溢れている。しかも、すごいのは、執筆者の専門も扱っている題材も全く異なっているのに、どこか一本の筋がピンと通っていることだ。 その一本の筋は本書のタイトルのとおり「音と耳から考える」ことによって貫かれている。考えてみれば、私たちは「視覚」を通じて思考することにあまりにも慣れすぎていたのではないか。歴史学者であるマーティン・ジェイはかつて「近代とは視覚が支配的な時代である」と言った(「近代性における複数の「視の制度」」ハル・フォスター『視覚論』所収、二一頁)。こう言うことで、彼はデカルト的遠近法を中心とする西洋近代の視覚論を批判したのだが、今や批判すべきは、デカルト的遠近法だけではなく、視覚そのものの特権視である。「聴覚」を中心に据えることで、私たちが自明のものとしている西洋近代の世界とは異なる歴史や身体を手にすることができるのではないか。本書はそうした野心に満ちている。 本書の中に導入されている枠組みの一つは近年のサウンド・スタディーズの成果である。第一部「響きを聞く――認識と思索」の冒頭に置かれた阿部万里江の「ちんどん屋の「響き」から考える――日本と英語圏の音研究/サウンド・スタディーズ」は、そのためのすぐれた導入となっている。 ここで阿部は、英米圏のサウンド・スタディーズの発展を、マリー・シェーファーのサウンドスケープ論『世界の調律』(一九七七/邦訳一九八六)から「音響認識論」を唱える民族音楽学者、スティーヴン・フェルドの議論、スティーヴ・グッドマンの『音の戦争――音響、感情、恐怖のエコロジー』(二〇一〇)、そしてジョナサン・スターンの『聞こえくる過去』(二〇〇二/邦訳二〇一五)や『MP3――意味のフォーマット』(二〇一二)の議論を手際良くマッピングした上で、その成果の日本の事例への応用として自身のちんどん研究を紹介している。 ここで「聴く」という行為において焦点を当てられるのはもはや「音楽」ではない。街中に溢れる「音/サウンド」であり、その「音響/響き」である。私たちが現在知っている「音楽」は、私たちの世界を満たしている「音」の中のごく一部の西洋的な制度に過ぎないのだ。 日本植民地下の台湾と朝鮮におけるフィールド録音を論じる山内文登の「方法としての音――フィールド・スタジオ録音の「共創的近代」論序説」は、こうしたサウンド・スタディーズ、とりわけスターンの近代批判を受け継いでいる。とはいえ、「視覚」「理性」「文字の文化」のヘゲモニーを確認しつつ、「音」や「耳」をその代案として持ち上げるだけでは十分ではない。なぜならスターンが「視聴覚連禱」と呼ぶそうした本質主義的な二分法こそが、視覚/聴覚を西洋と非西洋という軸に配置してきたからだ。この西洋/非西洋の軸に、さらに北/南、日本帝国主義においては日本/植民地という軸を重ね合わせることで、「西洋と非西洋の両者を不均衡ながら一絡げに巻き込んだグローバルな「共創的近代」という視座を導入する」(一七三頁)ことが、山内にとって「方法としての音」を考えることなのである。「視覚」を中心に形成されてきた西洋近代的世界観とは異なる世界を描くことはこの本の基調となる重要な企てだが、それにとどまらない。音と耳は空間を横断し、時間を超越し、思いがけない共同体を形成したり、文化や芸術を創造したりする。第四部「音が作る共同体」、第五部「芸能化の文脈――ラッパと太鼓」で紹介される事例は、音と耳の文化が生み出す創造力を描き出している。 ここで重要な役割を果たすのが、メディア・テクノロジーである。本書が興味深いのは、あまり知られていない、しばしば歴史の中で忘れ去られてしまっている音のテクノロジーに焦点をあてて、それが当時持っていた文化的、社会的、政治的意味を掘り起こすとともに、それが生み出したサウンドスケープを描き出していることだ。特に第六部の「鼓膜の拡張――音響テクノロジーの考古学」、第七部「ステレオの時代――聴く、録る、売る」、第八部「物語世界論への挑戦」では、電話や拡声器、補聴器、ステレオ、そしてゲームなどの音のテクノロジーが、そのように人間の主体の編成と社会における実践、関係を変容させてきたかが、さまざまな観点から論じられている。 本書のどの論考にも、独特の音が鳴り響いていて楽しい。国際日本文化研究センターの共同研究班「音と聴覚の文化史」の成果ということだが、執筆者がこの共同研究に楽しんで参加しているようすが伺える。活字の中に音が聞こえる。本書の中の木下知威のエッセイ「フィジカル・リスニング――聞こえない身体による聴取」が示したように、聴取は必ずしも耳のみによって行われるわけではない。都市の中で、自然の中で(岡崎峻の「聞きえないものを聞く――水面下の音がもたらす知覚と想像力」では水の中の音も描かれている!)聞こえてくる音、サウンド・アーティストや実験的なミュージシャンたちが作り出す音、そして最終部で描かれるようなデジタル技術が生み出すポストヒューマンな音……、音楽的な書物は少なからず存在するが、これだけ音が溢れている本は前代未聞だろう。何よりもこのことに驚かされる。(もうり・よしたか=東京藝術大学教授・社会学・文化研究・メディア研究)★ほそかわ・しゅうへい=国際日本文化研究センター名誉教授・日本近代音楽史・日系ブラジル文化史。著書に『近代日本の音楽百年』(全4巻、芸術選奨文部科学大臣賞、ミュージックペンクラブ音楽賞)『遠きにありてつくるもの』(読売文学賞)など。一九五五年生。