――語源、映画、美術、環境、歴史、感情、アイデンティティ――暮沢剛巳 / 東京工科大学教授・デザイン史週刊読書人2020年5月8日号(3338号)風景の哲学 芸術・環境・共同体著 者:パオロ・ダンジェロ出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0471-9日本では様々な風景論が出版されており、外国語文献の翻訳や風土や景観といった類義語をテーマとしたものまで含めれば膨大な数に上る。そうした中にあって、ゲオルグ・ジンメルの論文と同名のタイトルを掲げた本書は、風景に人並みの関心を抱いていることを自認する私にとっても刺激的な一冊であった。 本書は全九章からなるが、訳者の鯖江秀樹は全体を四部構成に見立てて「芸術・環境・共同体」のサブタイトルを設けている。以下その見立てに従って読み進めてみよう。 第一章「風景の哲学のために」では、まず風景の語源が俎上に載せられ、例えば英語、ドイツ語、オランダ語といったゲルマン諸語が「Land(大地)」に由来しているのに対し、フランス語、イタリア語、スペイン語といったロマンス諸語が「Paese(国)」に由来していることやその後の変遷について論じられる。この作業によって次章以降の各論の前提が整備され、「環境」「歴史」「近代性」「感情」「アイデンティティ」という五つの論点が示される。以前拙著でも考察したことがあったため風景の語源については既知であったが、哲学を標榜するだけあって本書の考察は厳密である。著者のアプローチは、哲学の中でもとりわけ美学に多くを負っているようだ。 第二、第三章は「芸術」に対応している。第二章では、風景という観点から選ばれた四本の映画が「地理映画」という独自の概念によって解釈され、いずれも優れた批評的性格を備えていることが論じられている。なかでも、ホピ族の世界観を映像化した作品としてカルト映画扱いされることの多い「コヤニスカッティ」を、風景という視点からとらえているのは興味深かった。一方美術を扱った第三章では、風景と聞いて誰もが連想する遠近法的な絵画ではなく、二〇世紀のランド・アートやミニマル・アートが取り上げられている。この意外な選択は、ケネス・クラークの名著『風景画論』で二〇世紀が風景画の不在の時代と断じられていたのを踏まえていることに加え、これらの作品が次章以降で詳述されている環境への問いを含んでいることも理由として挙げられよう。 第四~六章は「環境」に対応している。風景と環境の相似を指摘する議論は、イーフー・トゥアンのような論者によって以前から為されていたし、近年ではエコロジーやSDGsの視点からも多くの議論が為されている。だが著者の問題意識はあくまで哲学の圏域にあり、それに即する形で「風景画」「認知論」「形式論」「雰囲気」「地理哲学」という五つのモデルが検討されている。私はこの箇所を通読して「milieu」というフランス語を思い出した。一般には環境と訳されることの多いこの言葉は、本来は「人間が中心にいる場所」を意味する。この五つのモデルの中心にもいずれも人間がいるはずだ。 第七~九章は「共同体」に対応している。イタリア人である著者にとって何より切実なのはやはりイタリアの問題であり、ここで詳細に論じられているイタリアの自然保護法や農業政策は、当然ながら日本の読者にはほとんど馴染みがないものではあるが(個人的には、二〇一五年のミラノ万博におけるイタリア館の環境展示が思い起こされる)、そこに現代の日本との共通点を探ることには大いに意義があるだろう。また第八章で提起されている風景とナショナル・アイデンティティの関係に関しては、かつて志賀重昂の『日本風景論』によって大いにナショナリズムを鼓舞されたことのある日本でも大いに考えるべき余地があるように思う。 本書の冒頭には、一九六〇年のオリンピック開催に際して、当時の首相・岸信介が二五〇〇本の桜を寄贈し、それによってローマの風景に日本的な要素が導入されたエピソードが紹介されている。それから六〇年、本書を片手に、岸の孫にあたる安倍晋三(そういえば、この男にも『美しい国』という風景論?があったではないか)がオリンピックを自らの政治的遺産としようとしている現在の東京の風景について思いを馳せてみるのも一興ではないだろうか。(鯖江秀樹訳)(くれさわ・たけみ=東京工科大学教授・デザイン史) ★パオロ・ダンジェロ=ローマ第三大学教授、イタリア国立大学評議会員。専攻は美学。近年の著書に『美学史Ⅰ 18世紀からロマン主義まで』『クローチェ問題』『技が技を隠す――アリストテレスからデュシャンまで』など。一九五六年生。