――論文が互いに対話している刺激的な論集――小野俊太郎 / 文芸評論家週刊読書人2021年5月21日号ジュール・ヴェルヌとフィクションの冒険者たち著 者:新島進(編)出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0554-9 開港百五十年を迎えた横浜とヴェルヌの関係を扱った『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜 「八十日間世界一周」の世界』が出版されたのは、十年ほど前だった。サンフランシスコに向けて太平洋を蒸気船で横断するフォッグ一行のようにわくわくしながら読んだものである。あの小さな「驚異の書」のメンバーを中心としたシンポジウムに基づく九本の論文が並び、ヴェルヌと他の文学者たちや作品との関係が主題に選ばれた。論文が互いに対話をしているのが刺激的でもある。以下筆者名で論文を紹介し、三本ずつまとめて扱いたい。 デース論文は「若き日のザカリウス親方」に焦点をあて、ホフマンとヴェルヌの関係を浮かび上がらせる。ホフマンの「芸術家を悪魔的な学者に、犯罪と美徳の葛藤を科学と宗教の葛藤」に置き換えて自身の科学小説の出発点とした。しかも、ヴェルヌはポーやホフマンによる「機械人間あるいは人造人間の主題を一度も使わなかった」(島村論文)のである。藤元論文は、『ミハイル・ストロゴフ』の日本受容を扱う。ロシア帝国内の反乱が西南戦争に置き換えられ、川上音二郎などの演劇や映画に利用された。『敵中横断三千里』が、映画版の『大帝の密使』に影響を受けたという説の紹介からも、間接的に広がる様子がわかる。プルーストがこの作品の舞台版を見た影響を分析する予告もされている(荒原論文)。三枝論文は、『モンテ・クリスト伯爵』と『シャーンドル・マーチャーシュ』の二つのテクストの異同を細かに分析する。プロットと主人公の造形における換骨奪胎を暴く、お手本のような論文である。三枝は「十七」という数字への固着があるとし、新島論文には「七」への固着の言及がある。数秘術的な読解を誘う話だろう。 荒原論文はプルーストとの関係を扱う今までの論考の濃密なレジュメである。ミレーの絵をめぐりヴェルヌやプルーストと共作者でもある息子のミシェルとの芸術観の違いが鮮明になる。そして、ドゥルーズの指摘を参照しながら、ヴェルヌとプルーストとの「横断線」を見出していく。単著として読んでみたい。新島論文は、ルーセルとの「師弟関係」を扱い、アミアンでヴェルヌ本人と出会ったことの神話を解体して、『アフリカの印象』の位置づけを新たにする。機械への偏愛だけでなく、ヴェルヌの緯度経度の明示とルーセルのチェス好きにマトリクスという共通点を見つけるが、石橋論文が指摘するロビンソン的野望ともつながる。そして、科学啓蒙家であるラスヴィッツが『両惑星物語』を書いた際にヴェルヌに比されるのを嫌がった点を示すのが識名論文だった。評者には、この小説はドイツ流の教養主義的で「あまり面白くない娯楽小説」で、抄訳されたのも当然に思えた。ペリー・ローダン・シリーズにも、同種の生真面目さがどこか漂うのだ。 評者に示唆的だったのは、馴染み深い作品を扱う石橋論文、巽論文、島村論文の三本である。石橋論文は、〈驚異の旅〉を地球という島を隈なく記述する「ロビンソンもの」と指摘し、対比されるドイルは、作者自身がロビンソン的状況を生きたとされ、二人の資質の違いを明らかにする。ヴェルヌが先行する作品に倣うだけでなく、自作の「二次創作」をする面に注目するが、これは「自己言及」(デース論文)とも関連する。巽論文は、ポーの『ピム』や「灯台」からヴェルヌそしてラッカーへとつながる「空洞地球」の話を鮮やかに展開する。ラッカーが創作により同時代批評を乗り越えた指摘が鋭い。結論に出てくる「続編製造学」は、二次創作家ヴェルヌが同時に他の作家の二次創作を促す面を言い当てる。島村論文はヴェルヌがSFの父とされる理由を問い直しながら、レムを持ち出して英米を主軸とするSFとは異なる系譜を構想する。フーコーと私市保彦を導きの糸に、レムが『ソラリス』を突破口として、次の段階に進んだことが説明される。しかも、最後に「テクスチャリティの革新」としてのSFの宣言がなされるのだ。 論集とは、読者という旅人が別便に乗り換える港ともなる。読みながら、トウェインが「トム・ソーヤーの探検」で『気球に乗って五週間』を借用したことがしきりに思い出されたし、慌てて書棚から何冊も引っ張り出すことにもなった。全体に、ヴェルヌ自身による〈驚異の旅〉とはひと味違う読書への旅を誘うガイドブックなのは間違いない。(執筆者:私市保彦/フォルカー・デース/三枝大修/荒原邦博/識名章喜/石橋正孝/巽孝之/島村山寝/藤元直樹)(おの・しゅんたろう=文芸評論家)★にいじま・すすむ=慶應義塾大学教授・近現代フランス文学・SF文学。著書に『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜』など。一九六九年生。