――「いつもの」が消失したコロナ後の教科書――九螺ささら / 歌人週刊読書人2020年7月24日号(3349号)らあらあらあ 雲の教室著 者:岩田道夫出版社:未知谷ISBN13:978-4-89642-611-3陽(よう)、ミドリ、国語の先生……。それぞれに、異変が訪れる。しかしそれは不穏なものではない。例えば陽は、苦手だったはずの英語で考えることができてしまう。小さな奇跡のようなものが、降りだした雨のごとく、その学校の所々にぽつっ、ぽつっと束の間現れる。 違和感はやがて学校全体に広がり、いつもの数学の先生が馬になり、いつもの教室はいつもとはまるで違ってゆく。 タイトルの『らあらあらあ』は、逆から読めば、「あらあらあら」。あらあらあらと驚く内に、学校はあり得なさをあちこちに孕んでゆく。 「国語の先生は、ほんとうは犀でした。」 「『……あの、先生はほんとうに数学の先生でしょうか』」 「『私、ほんとうにミドリかな……』」 「『君は、いったい何者かね⁉』」 自己同一性が、それを生徒が獲得してゆく現場であるはずの学校で、じわじわ崩壊してゆく。教室、学校という施設自体も、雲のごとくその形を変容させ、生徒は不安になってゆく。 作者の岩田道夫氏は、コロナ禍を知らずに二〇一四年に他界している。氏はこの作品を、経済が低迷して鬱屈する時代を生きる子どもたちへの、風穴のようなプレゼントとして書いたのかもしれない。 コロナ前なら、この作品は美しい飛躍としての詩、あるいはプチホラーとしてのシュール、またはオチのある夢話、にカテゴライズされただろう。しかし世界は今、本書に描かれたアイデンティティークライシスファンタジーそのものだ。 世界の様相と合致した本書は、ほとんど実用書である。 勉強って何? 先生って何? 学校って何? 会うって何? 人って何? 体って何? 愛って何? 仕事って何? 職場ってどこ? SNSが本音? ツイッターは、身体性を失った魂が流れるプール? そもそも、そもそも、そもそも……。状況が突如激変し、言葉が実態とズレてゆく。言葉が、自己同一性を失う。 「(どうして、こんなところに犬小屋があるのだろう)」 「(じゃあ、ここにいる私はいったい誰なんだろ……)」 「そんなことがあるだろうか?」 「『おいおい、それは変だよ。そんなことを言ったら、君も本当は君ではなくて、君に非常に良く似せて作られた物体になってしまうぞ』『そうなんだよ。でも、それは怖くて言えなかったんだよ』そう言ったとたんに、その子は消えてしまいました。」 「『たすけてーッ!』」 「『大変です!』」 たすけてーッ! 大変です! から始まる、すべてが一旦覆されたコロナ後のニューノーマル時代。ここはどこ? わたしは誰? 実存への懐疑から始まる、つまり哲学必須時代。 学校は、就職の為の知識や技能の習得の場(日本株式会社予備校)ではなく、個々の裸の魂が集う哲学の現場になる。それは、儒教ベースで軍国主義を経た日本では特に、遠い遠い、理想中の理想だっただろう。しかしコロナで強制実行となった。 今までの道徳や倫理の教科書では包容力不足となり、本書のようなファンタジーが、今後の日本の学校の課題本となるのかもしれない。(くら・ささら=歌人) ★いわた・みちお(一九五六―二〇一四)=作家・詩人・芸術家。一九九二年童話集『雲の教室』で日本児童文芸家協会新人賞。新刊に『イーム・ノームと森の仲間たち』『ファおじさん物語』など。