――イラク戦争小説の新たな展開――青木耕平 / 東京都立大学ほか非常勤講師・アメリカ現代文学週刊読書人2020年4月10日号(3335号)チェリー著 者:ニコ・ウォーカー出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391174-8本書タイトルである『チェリー』とは、アメリカ軍における隠語で「新兵」のことを指す。一九八五年生まれの著者ニコ・ウォーカーは、二〇〇五年に大学を中退、自らの意志で軍に入隊すると、衛生班の新兵チェリーとしてイラクに派遣された。翌年帰国すると、ウォーカーはドラッグに溺れ、金を使い果たし、銀行強盗を繰り返し、ついに二〇一一年に逮捕、禁錮刑となる。二年後、獄中のウォーカーを取材した記事が世に出て大きな波紋を呼んだ。地獄絵図と化したイラク、それに伴うPTSDの発症、経済停滞による社会不安、全米を席巻していた薬物オピオイド危機。イラク帰還兵の若者が犯罪者になるまでの痛ましい「理由」が、そこには明確にあった──にもかかわらず、小説『チェリー』にはそれがない。 名のない語り手「俺」が著者ニコ・ウォーカーであることは明らかなのだが、どれだけ丹念に本書を読んでも、なぜ「俺」が戦争に行き、薬物中毒になり、犯罪に手を染めなくてはならなかったのか、その必然性が見えてこない。ニュース記事にあった「事実」が「虚構」のなかで消えている。多くの読者はそれに対して憤ったが、その批判は本編が始まる前に、扉頁ですでに無効化されている──「これはフィクションです。ほんとに起きたことは一つもないです。人物は一人もほんとにはいないです」 そのようにして書かれた「フィクション」としての『チェリー』は、青春文学の傑作である。戦地に赴き、ドラッグに溺れ、麻痺した痛みを抱えながら綴られる一人称「俺」の語りは、常にどこか冷めていながらも、寂しさと悲しさに満ち、読者の心を見事に掴む。語りには切実さがあり、トマス・ウルフやJ・D・サリンジャーなど散りばめられた文学の引用や言及も上滑りしない。時代と社会に翻弄されながら、「俺」は、イラク戦争やトラウマ等を、自身の人生が転落した理由として決して名指さない。悲しみを何かに還元することに対する拒否の身振り、それが『チェリー』には溢れ、かつ徹底されている。この悲しみの核心を「語らない」一人称の語りこそが、逆の効果を読者に与える──それでも、君ならわかってくれるはずだ、と。 本書は獄中記事を読んだ編集者がウォーカーに持ちかけたものだが、小説終わりの「謝辞」のなかでウォーカーはこと細かにその経緯を記し、編集者による大幅加筆と大量修正の「事実」を明らかにする──「というわけで、この本を読んで、この主人公はなんかアホだけどなんか憎めないなと思ったとしたら、それは全部編集者のおかげだ」 これが悪意ある挑発なのか、誠実さゆえの告白なのか、それとも何かを隠すための言表なのか、それを断定できない。こんな帰還兵小説は今までない、ゆえに、本作は傑作である。デニス・ジョンソンやクエンティン・タランティーノと比較され語られているが、著者と小説の関係、薬物と犯罪、すでに話題沸騰の映画化という意味で、多くの読者はアーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』を想起するだろう。小説家としてのウォーカーの真価は第二作目が出るまでわからない。目も当てられない駄作を書いて、作家としてのキャリアは終わるかもしれない。それでもなお、本書が傑出したデビュー作であることに変わりはない。(黒原敏行訳)(あおき・こうへい=東京都立大学ほか非常勤講師・アメリカ現代文学)★ニコ・ウォーカー=小説家。米・クリーヴランド生まれ。二〇〇五年から〇六年にかけて衛生兵としてイラク派遣、七つの勲章を受ける。しかし復員後にPTSDに苦しみ、一一年に銀行強盗で逮捕、複数の強盗罪で懲役刑。本作『チェリー』は獄中で執筆。二〇年十一月出所予定。