――「非-知」の思考の哲学的解釈と「女性的な思考」という領域――福島勲 / 早稲田大学教授・フランス文学・思想・文化資源学週刊読書人2020年9月25日号脱ぎ去りの思考 バタイユにおける思考のエロティシズム著 者:横田祐美子出版社:人文書院ISBN13:978-4-409-03108-7 ここ数年、ジョルジュ・バタイユを対象とする若手研究者の出版や博士論文の提出が相次ぎ、言わばバタイユ・ルネサンスとも言うべき活況を呈している。出版に限っても、石川学『ジョルジュ・バタイユ 行動の論理と文学』、『理性という狂気 バタイユから現代世界の倫理へ』、井岡詩子『ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』というモノグラフィが上梓されている。これは日本のバタイユ受容に大きな転換期が訪れていることの確かなきざしである。実際、いずれの著書も、これまでの受容や研究のあり方を刷新するという鮮明な意志に貫かれているのが特徴である。 そして、本書もまた、このルネサンスに大きく貢献する書物であると言える。では、本書が刷新するものとは何か。本書の主要な目的は、二つである。一つには、バタイユにおける「非-知」というあり方を「哲学すること」ないしは「愛-知(フィロソフィア)」の行為そのものとして再定義すること。そして、もう一つは、バタイユの思考を「女性的な思考」としてとらえる新たな視点を設定することである。 前者の主張の出発点にあるのは、バタイユをエロ・グロ・ナンセンスのアイコンとして消費していた状況へのいらだちである。また、バタイユをアンチ哲学者、反知性主義、すなわち西洋形而上学の否定者として定義する解釈についても、その不十分さが表明されている。本書の解釈では、むしろバタイユの営みとは、プラトン、カント、ヘーゲル、ニーチェ、デリダ、そしてナンシーへとつながるような、「哲学すること」という綿々と続けられている思考の営みの一部として論証される。つまり「哲学すること」とは、静態的な名詞の「哲学」とは区別される動詞「哲学することphilosopher」であり、このように過去から未来へと続く哲学者の思考の流れにバタイユの思考を合流させることによって、バタイユの「非-知」の射程はより深く理解されるだろうし、バタイユの営みをより広い領域に開くことが可能になると主張されるのである。なるほど、バタイユの「非-知」とは、不断に更新されていく、終わりなき思考の運動であると言えるが、それを知を愛することを決してやめない「愛-知」の運動、「欲望」と重なり合わせる本書の指摘には説得力がある。 また、後者に関しては、バタイユ自身のジェンダーが「男性」であったことと時代的な制約もあり、バタイユのテクストには、男性目線で書かれた表現(たとえば「男らしい」という形容詞の使用とか)も少なくない。そこから男性中心的エロスが分析されることも多いし、女性に敬遠されたがちな状況もある。しかし、実際には、バタイユの思考は、むしろ女性的な思考であり、そこに着目すべきであると本書は言う。その際、著者の導きの糸となっているのが、「私は娼婦がドレスを脱ぐように思考する。/思考はその運動の極点において破廉恥で、猥褻そのものである」というバタイユの言葉であり、『マダム・エドワルダ』という作品の分析である。もちろん、本書が「脱ぎ去りの思考」と題されている大きな理由の一つがここにあり、既成の「概念」を脱ぎ去るという行為が、不断に更新されるバタイユの「非-知」という思考の運動と重ね合わされている。 ちなみに、「女性的な思考」という再定義の有効性を判断するためには、筆者は本書をもう少し読み込まなければならないと感じている(une filleを「娼婦」と訳すべきかどうかも含めて)が、いずれにせよ、バタイユを男性中心主義とする解釈は短絡に過ぎると常々思ってきたので、本書が主張する方向には大変に勇気づけられるものがある。 さて、以上に本書の二つの大きなテーゼの概略を紹介したが、これだけの紹介では、どれほど先行研究をないがしろにする書物かと思われてしまうかもしれない。だが、これらの主張が先行研究を堅実に理解した上で展開されていることは、十分に強調しておきたい。実際、本書のバタイユ読解、とりわけ、非-知という「用途なき否定性」の運動を、不断に更新される思考の運動としてとらえる視点は、これまでのバタイユ研究が積み上げてきた解釈を正確に継承するものである。本書の独創性というのは、これを新たに「哲学すること」へと接続した点にあると言える。ただし、その際、「哲学すること」の内実が、従来の意味(「古名」としての「哲学」すること)ではなく、まさしく「生きること」(本書二五三頁)と同義の営みへと横滑りしていることも、十分に意識して読む必要があるだろう。 それゆえ、本書は「非-知」というバタイユの思考の運動を概念を辿りながら(脱ぎ捨てながら)理解するための、堅実な入門書としての側面も持ち合わせている。本書のもとになった博士論文のために新たに書き下ろしたという文章は、明晰かつ非常に雄弁であり、バタイユや哲学に専門的な知識を持たない読者であっても、バタイユの「非-知」の思考がはらんでいた重要性を自らのものとすることができるだろう。また、本書はバタイユを男性中心的な解釈から解放するだけでなく、来たるべき「女性的な思考」という領域に新たな内実を加えるものとなるはずである。『内的体験』『マダム・エドワルダ』『エロティシズム』といったバタイユの主著の示唆に富む細部の分析に加えて、過去や同世代のバタイユ内外の研究への参照も豊富で、筆者は自らの不勉強を教えられるとともに、バタイユを外に「開く」ための新たな道筋を指し示されたような気がした。(ふくしま・いさお=早稲田大学教授・フランス文学・思想・文化資源学)★よこた・ゆみこ=立命館大学衣笠総合研究機構・専門研究員・早稲田大学総合人文科学研究センター招聘研究員・ジョルジュ・バタイユの思想・現代フランス哲学。一九八七年生。