――人類は危機をのりこえ、歴史の未来を切り拓けるか――塚本恭章 / 愛知大学教員・経済学博士・社会経済学週刊読書人2020年7月17日号(3348号)マルクスの思想と理論著 者:伊藤誠出版社:青土社ISBN13:978-4-7917-7247-6今なお世界中の人々の知的関心を集め続けるカール・マルクス。本書は、当該人物の生涯に及ぶ学問的思索の全体とその現代的意義を、「思想」と「理論」から説き直す作品である。 著者による近年の諸作品、『マルクス経済学の方法と現代世界』や『資本主義の限界とオルタナティブ』、『入門資本主義経済』との併読も推奨されるが、本書がよりコンパクトで近づきやすいだろう。〈マルクス生誕二〇〇年〉を記念して執筆された論考をふまえた作品であり、本書には、マルクスの思想と理論の現在性と新たな潜勢力を世界中で共有しあう「あつき連帯感」にもとづく実直な学問精神が骨太に貫き流れている。時代はまさに『資本論』といわれる今日的情勢とも響き合う。 いうまでもなく、マルクスの思想と理論そのものが多面的で豊かな特質と構造をもち、本書の論述構成はそれを的確に反映している。なぜマルクスの思想と理論か、どこにその現代的意義を見出し、どう活かすべきか。こうした問題意識は、人類が直面する、氏のいう巨大で多層的な〈双対的危機〉――新自由主義的資本主義の限界と二〇世紀型社会主義の崩壊――の諸相を精査し、それをのりこえうる歴史の未来としての二一世紀型社会主義の可能性を探究する試みのなかにおのずと立ち現れてくる。「限界」、「崩壊」、「可能性」の有機的連関を読み解くための洞察は、マルクスの思想と理論のなかにこそあるからだ。 双対的危機の一つ目からみていこう。かつての先進資本主義諸国で支配的なケインズ主義的福祉国家路線から、民営化・緊縮財政・規制緩和の三面を経済政策の基調とする一九八〇年代以降の新自由主義的グローバル資本主義は、氏によれば、「歴史の歩みを大きく、反転させた」(『入門資本主義経済』)。経済学の思想・理論においても、「マクロ経済学のミクロ的基礎づけ」を方法的コアとする新古典派がケインズ派に代替して現代の主流派へ復活した。新自由主義は、唯物史観のいう経済的下部構造に生じた危機と変化に対応する適合的な政策イデオロギーとして機能し強化されていったのだ。くわえて、不朽の名著『共産党宣言』で鮮やかに活写された、資本主義のグローバルな発展性をめぐるマルクスらの時空を超えた天才的洞察にも照らしながら、現代の新自由主義的資本主義は、資本主義がその本来の内在的原理に回帰し、高度情報技術(IT)を物質的基盤としてそのダイナミズムを再生させようとする、伊藤氏の提起するところの「逆流する資本主義」としての側面をもつことをも意味する。だがそれは、当初期待された「効率的で合理的な経済活力の再生に成功しているとはいえない」。先進諸国での国家、地域コミュニティーの縮小・劣化と顕著な衰退傾向を四〇年の長期に及んで持続的に進展させてきたからだ。 とりわけ〈金融化資本主義〉ともいわれる新自由主義的資本主義は、「先進諸国の実態経済に停滞基調を深め、……その動態に金融的な投機的不安定性とその破壊作用をも増してきている」のであり、それが二〇〇八年のリーマン・ショックを帰結したことはなお記憶に新しい。氏によれば、サブプライム世界金融恐慌でみられたのは、資本主義に内在する労働力の商品化の無理にくわえて、労働力の金融化による重層的な搾取収奪作用が現代的に相乗し合うしくみにほかならなかった。貨幣を単なる媒介・交換手段とみなし、セイ法則と古典派の二分法にもとづく主流派の新古典派経済学では、そもそも恐慌はおこりえないと想定されている(『サブプライムから世界恐慌へ』青土社、二〇〇九年)。階級社会としての資本主義市場経済の特殊歴史性とその内的矛盾を客観的な学問認識の体系として、史実と論理にもとづきながら原理的に解明するマルクス『資本論』の経済学が、マネタリーな経済理論としてのすぐれた洞察をも有していることから導かれる諸考察といえるであろう。 労働市場と消費市場の双方での新自由主義的な分解・再編は、安価な女性労働の大量動員をふくむ非正規の雇用形態の増大をつうじ、資産と所得の格差再拡大と新たな貧困問題、働く人々の生活の不安定さと将来不安を助長し続けている。少子高齢化が一段と加速化する日本では、あらゆる社会形態に通底する「社会の基礎となる人口を減少させない」という経済原則そのものを毀損させる事態を引き起こしているのだ。人間と外的自然との物質代謝の有機的連関にも負の破壊作用が広範に及ぼされ、人間と自然の深刻な荒廃化が増していることは、むしろ新自由主義的グローバル資本主義の必然的帰結といってよい。新自由主義的「資本主義は労働力の商品化を徹底する個人主義的社会への共同体的人間関係の解体に過度の成功を示しつつある」が、まさにその成功こそが新自由主義的資本主義の本質的限界として潜み、それからの脱却と克服をより困難なものとしている逆説的事態を本書はじつに鋭く指摘している。 双対的危機のもう一つは二〇世紀型社会主義の崩壊。その多面的総括から、唯物史観のいう階級社会の歴史としての「人類前史」をのりこえ、未来の「人類史の本史」を二一世紀型の新たな社会主義的オルタナティブとしてどう切り拓いていけるかは、きわめてスリリングな未知なる挑戦課題であろう(氏の著作集最後の第六巻は『市場経済と社会主義』である)。 二〇世紀のソ連型社会主義は、先進諸国における一九八〇年代の新自由主義的資本主義へのモデルチェンジと同時期に、資源と労働力の枯渇など従来の成長力を継続的に支えてきた諸条件を失い、「不足の経済」から危機的「摩滅」の状態に陥り、崩壊に至る。集権主義・国家主義・官僚主義かつ唯物史観の機械的適用にともなう技術的生産力主義といった二〇世紀の社会主義の特質は、市場経済を弾力的に活用する市場社会主義をふくめ、分権的・民主的・人間的な内実とグラスルーツからの社会運動の主体的連帯と組織化をより志向するものとなり、多様な理論モデルの可能性が二一世紀においては強く提唱されてよいだろう。社会主義には元来、思想、理論そして運動の三面を含みこむが、二一世紀型社会主義の実現のためにはそれらの鍛錬とあわせ、運動=実践という側面がより重視されようか。社会主義のあり方をめぐる従来の狭い視野から人々を解き放ち、宇野弘蔵らが示唆したように、「社会主義の道はむしろ一つではないこと」を認めあう明確な〈自由〉こそが、まず何より求められているのだ。マルクスの思想と理論の現代的潜勢力も、そういうものとして新たに読み直し活かされねばならない。マルクスの唯物史観とそれを基礎づける『資本論』の経済学は、社会主義の学問的根拠を提供しているのであり、それは古典派や新古典派、ケインズ派、新リカード派にはけっして望みえないものといえよう。こうしたことを十分にふまえ展開される氏の一連の社会主義論は精彩に富み、すこぶる前向きである。 社会主義における価格体系や剰余労働のあり方など、かつての経済計算論争(と価値論論争との連動)で十分に詰め切れていない理論問題の射程をふくめ、本書では、市場経済と社会主義の接合可能性、資本主義と市場経済の分離可能性というマルクスに独自の人類史的洞察についても論及されている(ただ氏が呼称するマルクスの市場経済外生説にたち、市場経済を形成する商品・貨幣・資本の流通諸形態を社会主義社会においても弾力的に活用する場合、「資本」はどう扱われうるか)。その関連で、「社会主義的ヒューマニズムの基本をなす、人間の本質とその豊かな可能性をめぐる思索」を念頭に展開される、「マルクス労働価値説の人類史的意義」はきわめて奥深い。 伊藤氏の一連の考究をつうじ、評者としてもあらためて問い直すべき貴重な論点を数多く〈再発見〉できた。マルクスの思想と理論という壮大な主題。本書は、その独創的で多元的、現代的な魅力をもつ世界へ読者を心地よく誘う作品である。(つかもと・やすあき=愛知大学教員・経済学博士・社会経済学) ★いとう・まこと=東京大学名誉教授、日本學士院会員、経済学者。東京大学経済学部教授、國學院大學経済学部教授、国士舘大学大学院グローバルアジア研究科教授を歴任。著書に『伊藤誠著作集 全六巻』など。一九三六年生。