――四つの切り口でその豊かな可能性を提示――佐藤卓己 / 京都大学教授・メディア史週刊読書人2020年5月15日号(3339号)メディア論の地層 1970大阪万博から2020東京五輪まで著 者:飯田豊出版社:勁草書房ISBN13:978-4-326-65425-3「メディア・テクノロジーの発展が社会を変える」。日本政府が提唱するSociety5.0を含め、情報化の技術決定論は俗耳に入りやすい。こうしたメディア進歩史観を批判する視座として、著者はE・フータモの「メディア考古学」を次のように要約紹介している。 「さまざまなメディアの正統的な物語の陰に隠され、無視されてきた側面を掘り下げ、「敗者」に見えるものごとの文化的な文脈を知ることのほうが、世にしられた「勝者」の歴史よりも重要である」。 なるほど、著者の第一作『テレビが見世物だったころ―初期テレビジョンの考古学』(二〇一六年)のサブタイトルにも「考古学」の文字がある。拙著『現代メディア史』が示すように私はなお「現代史」派だが、メディア史の次世代潮流はどうやら「考古学」派のようだ。本書は既発表論文をまとめたものなのだが、日本における「メディア考古学宣言」と呼ぶにふさわしい体系性を備えている。各部はおおむね時系列順に章立てされている。 第Ⅰ部「メディア論の地層」は、六〇年代日本の美術評論におけるマクルーハン受容(第1章)、八〇年代の考現学ルネッサンスとそのキッチュ化プロセス(第2章)、九〇年代カラオケブームとモバイルな私生活化(第3章)と、見落とされがちな過渡期のメディア論が手際よく整理されている。 第Ⅱ部「メディア・リテラシー論の地層」の切り口は、永六輔『遠くへ行きたい』の放送民俗学(第4章)、イオンモールに入った岡山放送の番組実践(第5章)、BPO(放送倫理・番組向上機構)管轄外のネットテレビ(第6章)を切り口に「送り手のメディア・リテラシー」を考察している。メディア・リテラシーといえば、これまでは「受け手の批判的思考」と理解するのが一般的だった。だが、ネット時代には送り手と受け手との非対称性という前提も大きく揺らいでいる。いまなぜ送り手のメディア・リテラシーなのかが明快に論じられている。 第Ⅲ部「メディア・イベント論の地層」では、七〇年大阪万博のタイムカプセルと「ハプニング」展示(第7章)、ネット初期九六年のメタ・モニュメント芸術(第8章)、〇六年ドイツW杯のパブリック・ビューイング(第9章)をそれぞれ事例として、ダヤーン/カッツや吉見俊哉のメディア・イベント論を今日の視点で再検討している。 第Ⅳ部「パブリック・アクセス論の地層」では、七〇年代初期CATVの趣味文化(第10章)、八〇年代ミニFMの流行(第11章)、「災後」の表現的メディア実践(第12章)が先行研究を取り込みつつ論じられている。 一見すると雑多な内容を扱っているように見えるが、四つの切り口でメディア論の豊かな可能性を鮮やかに提示している。ちなみに、サブタイトルは「1970大阪万博から2020東京五輪まで」だが、本稿執筆の段階で「2020東京五輪」開催の雲行きは怪しくなっている。こうした未来の不透明性も、「「敗者」に見えるものごとの文化的な文脈」すなわちメディア考古学の知が求められる理由なのだろう。(さとう・たくみ=京都大学教授・メディア史) ★いいだ・ゆたか=立命館大学准教授・メディア論・メディア技術史・文化社会学。一九七九年生。