――人の背景に眠る代替不可能な物語を語り直す――土佐有明 / ライター週刊読書人2021年9月17日号薬を食う女たち著 者:五所純子出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-22824-2 鵺(ぬえ)のような書物である。捉えどころがなくジャンル分けが無効だ、という意味において。五所純子の『薬を食う女たち』は、序章を読む限り、薬物に翻弄される/された女性へのインタビュー集かと見紛う。なんせこの章のタイトルが「インタビュー」と名付けられているのだから。実際本書は、薬を食った女性たちを取材した雑誌連載がベースになっている。 書名の示す通り、本書には重度のドラッグ中毒に陥った女性たちが多数登場する。しかも、その多くが一度ドラッグから足を洗いながらも、またクスリまみれの闇の世界に戻ってくる。仕事をするために覚せい剤を打ち、それにより得た金銭をまた覚せい剤に使い、という負のループに陥っている事例も多い。 ドラッグはもちろん、DVや堕胎、売春などの事例に踏み込んだ本書だが、著者はそれらのケースを余所事として片付けはしない。むしろ、女性たちが著者に憑依したかのように、自分事として体験を語り直す。まるでイタコである。帯にあるように「ルポ+文学」であり、「ノンフィクションと文学の裂け目を繫ぐ」という惹句は看板に偽りなし、である。 また、従来のルポルタージュでは取材で得た証言を「素材」として捉えがちだったが、本書はそれらとは位相が違う。自説を補強するために証言を利用したり、持論の披瀝のために一部を抜粋したりはしない。「素材」は手元にあるが、それを機械的にコピー&ペーストすることは一度としてないのだ。彼女らの体験は当然人の数だけあり、いずれも代替不可能であることを、著者は熟知しているのだろう。 彼女たちの薬物体験を、読者が追体験させられるような箇所もある。薬によるトリップが執拗に描かれるたびに、たとえシラフでも強烈な酩酊感を覚えてしまう人もいるはず。筆者もそうだった。アッパーになる人も、ダウナーになる人も、フラッシュバックが起こる人もいるだろう。こうした感覚を味わったのは、富田克也監督の『サウダーヂ』という映画を観た時以来だ。『サウダーヂ』は登場人物がドラッグを摂取すると同時に、スクリーンの向こうからマリファナの匂いが漂ってくるかのような作品だった。著者の五所純子はこの映画を観たのだろうか。 あとがきに著者は〈ときには混乱し、ときには矛盾し、ときに停滞した。語りというものは整然としない。整然としすぎていると、何かが削ぎ落された跡ではないかと訝ってしまう〉と書いている。これは社会学者である岸政彦の『断片的なものの社会学』(朝日出版社)とも相似形を成す思考回路だ。岸の聞き取り調査の成果を収めた同作には、こんな部分がある。 〈どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、胸をかきむしられるような気持ちになる。梅田の繁華街ですれちがう厖大な数の人びとが、それぞれに「何事もない、普通の」物語を生きている〉 五所も岸も、インタビューで向き合った個々の事例について、偏見や予断を周到に避けている印象だ。岸は先述の本でも〈小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう〉と書いている。そう、自分を透明で名も無き存在だと自認している人にも、あるいは動物にすら、その背景には膨大で無数の物語が眠っている。それがいかに尊いか、両氏は知悉しているはずだ。 本書で五所が試みた、ルポルタージュと純文学のあわいを行くような筆さばきは、安易な追従者を生むことはないだろう。竹中労にも朝倉喬司にも井田真木子にも森達也にも書けなかった〝ルポルタージュver2.0〟。そんな風にでっちあげたくなってくるような、貴重で希少な本である。(とさ・ありあけ=ライター)★ごしょ・じゅんこ=文筆家。映画・文芸を中心に多数執筆。本書が初めての単著となる。一九七九年生。