背後から見守り続ける写真家の一貫した眼差し 中島水緒 / 美術批評週刊読書人2022年1月21日号 風をこぐ To Row the Wind著 者:橋本貴雄出版社:モ・クシュラISBN13:978-4-907300-05-0 若手写真家の登竜門「写真新世紀」二〇二一年度で佳作を受賞した写真家による第一写真集である。しかし、評者であるはずの私には本書を大上段から「批評」する言葉が持てない。極めてプライベートな動機で撮られた写真家と愛犬の一二年間に及ぶ記録が、それ自体ですでに美しく完結した物語を築いているからだろうか。それとも、やがて死ぬ、と最初の一頁目から直感されてしまう被写体の運命が、感傷抜きに本書と向き合うことを難しくさせているからだろうか。 おそらく愛するペットの喪失とは、「誰」でも直面しうると同時にほかならぬ「私」にしかわからない、普遍的にして共有不可能な痛みの体験なのだ。写真というメディアが「喪失」や「不在」といったテーマと親和性を持つのは確かだが、ロラン・バルトやらプンクトゥムやらといった固有名や専門用語を駆り出したところで、かの人と愛犬が過ごした具体的な手触りをもつ日々を言い当てたことにはならない。うつろう記憶を柔らかく掬った写真群に、「批評」の俯瞰視点はあまりにも不似合いだ。だから、この文章も必然的に書評よりはエッセイに近い体裁を取らざるをえない。 二〇〇五年、橋本は福岡の路上で倒れている犬を引き取り、「フウ」と名付けた。脊髄を損傷したフウの後ろ脚には障害が残ったが、根気よく続けたリハビリと手厚い看護によって自力で歩けるまでに回復する。橋本と母親が暮らす福岡、環境の変化のために転居した大阪や東京、新天地を求めて旅立ったベルリン。フウと橋本は四つの都市で生活をともにする。驚くのは、フウの写真の多くが屋外での散歩の場面、それも海辺や河川敷、森林公園の遊歩道といった広々とした空間で撮影されていることだ。しかも橋本のカメラは、リードもつけずに伸び伸びと散策するフウの姿をかなりの距離を置いてとらえる。場合によってはフウの小さなからだは、開放的な自然の景観にまぎれてほとんど点景になる。にもかかわらず視線がおのずとフウに引きつけられるのは、余計な介入こそしないがフウの歩みを背後から見守り続ける写真家の眼差しが、どの地においても一貫しているからだろう。リードではなく、ささやかな信頼が一匹と一人をつないでいる。 フウには確かに健康的な犬のような躍動感はない。しかし、歩行を助ける車椅子を後ろ脚に装着するようになっても、その歩みがやむことはない。フウの黄褐色の体毛は陽光を受けて白く滲み、やわらかく発光する。ソフトフォーカスの写真になるとフウはいよいよ世界に溶け込んでゆく。事故のために曲がった背、後ろ脚をかばう不安定な横座りさえもが、フウを取り巻く草むらや木立や陽だまりと地続きの有機的なフォルムに見えてきて、ああ命がある、と感じ入る。一頁目から直感された死が生の息吹とまだらに混じり合うのはこのときだ。 愛するペットを撮った先行作品といえば荒木経惟の『愛しのチロ』がただちに思い出されるが、荒木が愛猫チロに「女」を見出し、そのコケティッシュな魅力への耽溺を隠さなかったのに対し、橋本はフウとの節度ある関係を保ち続けたように思える。犬から人間への媚態、あるいは犬を我が物とする人間の傲岸が、ここには微塵も感じられない。末尾に収録された橋本の手記を読めば、すべてを美談に片付けられない生活の苦労もうかがい知れるが、本書に犬と人の稀有な関係性が刻印されているのは間違いないだろう。 頁をめくる間、自分ではない誰かの感情が乗り移るかのように胸の奥が震えて、終始くるしかった。たとえ抑制の効いた形式であっても、プライベートな写真は撮影者の感情を受け手に覆いかぶせてくるものだ(たとえそれが、撮影者ではない別の誰かの感情の交錯であっても)。しかし、本書は愛する対象との分離の過程も静かに受けとめている。寄り添いつつ離れる、その二重の心情を受け手にも感得させるところに、本書が珠玉の写真集と成り得たゆえんがある。(なかじま・みお=美術批評) ★はしもと・たかお=写真家。ビジュアルアーツ大阪写真学科卒業。イイノ・メディアプロに勤務したのち、二〇一一年にドイツに渡る。現在、ベルリン在住。『風をこぐ』所収の写真からなる「Kette」で、二〇二一年度「キヤノン 写真新世紀」佳作(椹木野衣選)。本書の出版記念巡回展を開催中。一九八〇年生。