――道徳と倫理を区別、緻密で野心的な議論を展開――坂井田瑠衣 / 日本学術振興会特別研究員・コミュニケーション論週刊読書人2020年12月11日号手の倫理著 者:伊藤亜紗出版社:講談社ISBN13:978-4-06-521353-7「さあ、となりの人と手をつなぎましょう」――小学校の先生からこう指示されたとき、ある種の戸惑いやためらいを覚えるようになったのは何歳の頃からだろうか。相手が同性であれ異性であれ、幼い頃はまったく気にならなかった「他者の体に接触する」という行為が、成長とともに何か違う意味を帯びはじめる。「手の倫理」の芽生えである。 著者は「道徳」と「倫理」を区別することで、「倫理」とは何かを明らかにする。道徳とは、「○○しなさい」という絶対的で普遍的な原則である。他方で倫理は、そうした道徳が通用しない状況でどうふるまえばよいのか、という迷いや悩みを問題にする。「先生の指示には必ず従いなさい」というのが道徳であり、「いや、そうは言っても、どうやって手をつないだらいいのだろうか」と悩み、そこに自分なりの答えを出そうとするのが倫理である。倫理とは、そうしたリアルで人間的なジレンマと正面から向き合い、可能性の幅を広げようとする思考であるとも言えるだろう。 他者の体に接触するとはどういう行為であり、どうあるべきなのか。本書では、そうした「手の倫理」をめぐって、緻密で野心的な議論が展開される。 接触には「さわる」と「ふれる」という二種類が存在することが、本書の議論の出発点となる。「さわる」とは人や物に一方的に接触することであるのに対し、「ふれる」とは、そこに相互的な関係を生み出そうとすることである。著者は、他者の体にふれることは相手が内に秘めた意志や衝動を感じ取ることにもつながると説く。クラスメイトと手をつなぐことがためらわれたのは、不用意に相手を感じ取ってしまうことへの憂慮だったのかもしれない。 コミュニケーション論の観点からは、他者の体にふれることによって「生成モード」のコミュニケーションが立ち現れるという議論が特に興味深い。メッセージを一方的に伝える「伝達モード」とは異なり、「生成モード」では、やりとりの中でメッセージそのものが生み出されていく。そこでは、もはやメッセージの発信者と受信者という区別は存在しない。その究極的な形として紹介されている視覚障害者の伴走では、ロープを介して相手の全てが「伝わってくる」とさえも感じるそうだ。それは、「ふれる」という密で持続的なかかわりあいによってこそ生じる、他の感覚には代替不可能なコミュニケーションなのだろう。 著者は、従来の西洋哲学においては視覚をモデルとして倫理が語られ、触覚は「低級感覚」として位置づけられてきたことを指摘する。このことは、これまでのコミュニケーション論(とりわけ非言語コミュニケーション研究)が、おしなべて視覚偏重であったこととも軌を一にしている。確かに、互いの印象に影響を与えるのは大半が視覚情報かもしれない。しかし、日常的なコミュニケーションには触覚が介在することも多く、子育てやケア、性愛といった場面では触覚的なやりとりが前提となる。そうしたコミュニケーションを「低級」として切り捨てることは、人間の根源的な身体性と社会性の重要な側面を見落としているような気がしてならない。 冒頭の例からも示唆されるように、触覚的コミュニケーションと距離を置くことは、成長に伴う必然でもある。しかし、コロナ禍で他者との「濃厚接触」を避けることを余儀なくされた今だからこそ、改めて他者に「ふれる」ことの意義や価値を再考したいものである。著者は、「ふれる」ことの価値それ自体は、必ずしも触覚でなくても実現しうると述べている。場合によっては、言葉で相手の心に「ふれる」こともできるのである。この視点はきわめて有望である。 他者にふれることで生成モードのコミュニケーションを生み出すための「技術」を、これまでに積み重ねてきた触覚的経験から自省的に学び、それぞれがそれぞれの立場において「手の倫理」を問い直すこと。本書は、こうした繊細な思索の楽しさへとわたしたちを導いてくれる。(さかいだ・るい=日本学術振興会特別研究員・コミュニケーション論)★いとう・あさ=東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授・美学・現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了。博士(文学)。著書に『どもる体』など。一九七九年生。