――人間と動物の心が通い合う刹那の機微を捉える――長瀬海 / 書評家週刊読書人2021年10月22日号動物たちの家著 者:奥山淳志出版社:みすず書房ISBN13:978-4-622-09005-2 少し個人的な話から始めたい。私はペットホテルを経営する両親のもとで育った。そのため、幼い頃から多くの動物に囲まれていた記憶がある。マルチーズのジェット、もも、ホワイト。猫のミッキー、ラジ、ちゅん、チャオ、パティ、チロル……。雑種犬のジョン、ガチャ、マミール……。イグアナ、烏骨鶏、うずら。チワワのハッピー。なかには、妊婦の客が預けたまま引き取りにこなかった犬もいるし、なぜか高校の世界史の先生に託された子犬たちもいた。マミールは障碍を抱えた子だったな。 一人っ子の私にとって、動物が兄弟だった。私より遅く生まれて早く死ぬ兄弟。命の大切さについてはそれなりに感じていたけれど、それが何なのか、深く考えてきたわけではない。だけど、それは、いつか取り除かねばならない痼として、私のどこかにずっとぶら下がっていた。そんな長年避けてきたものと向き合う機会を、本書は与えてくれた。 このエッセイには、写真家の奥山淳志が出会ってきたたくさんの動物の記憶が刻印されている。その原初の映像のなかで動くのは、知人から貰い受けた犬のボビーの無垢な姿だ。あどけない表情の子犬に、三歳の「僕」の柔らかい指が触れる。小さくも確かな生命同士の邂逅。初めての交感の瞬間。人間と動物の心が通い合う刹那の機微を、奥山は濁りのない筆致で捉えていく。その文章における細密性と純真さが本書の魅力だ。成犬になったボビーが窓から家族をじっと見つめるときの眼の輝きや、亭主関白で動物に対する共感性の低い父に叱られているときの悲しげな佇まい、病いを患った際の呼吸音。愛犬のいじらしい姿を慈しむように如実に再現する奥山は、言葉を探り当てながら記憶を想起することで、何をしようとしているのか。 端的に言えば、〈生命の存在性〉と呼ぶしかない、動物たちが「僕」の世界に生きていた意味を突き止めようとするのだ。美しいインコのアー坊と玉ちゃん。捨て犬が常態化していた七〇年代の奈良の郊外に現れ、奥山に保護されるも、昔の家族に会いたい一心で何度も逃亡を企てる母犬のラナ。鳩レースに憧れる奥山少年が雛の頃に拾い、訓練によって鳩舎と外界を自在に往還するようになった鳩のポッポ。学校で発見し持ち帰るが父によって無惨な目に遭わされるネズミの赤児たち。記憶の映写機は、彼らの生と死を描くことで、そこにある複雑な手触りを思い出させる。それは即物的な命の拍動を超越した、動物たちの存在の確実さを伝えるのだ。すなわち、この世界で生命を育んだ動物の存在が、「僕」の世界そのものを作り・支えていることの揺るぎなさを思弁し、摑み取るのが、本書の目論む処なのである。 動物に囲まれながら、思春期に彼らと交感することを止め、大人になり愛犬の生命の尊さにもう一度気づいた奥山の人生を、私は他人事と思えない。現在、東北で暮らす奥山はさくらという犬を育て、旧弊な飼い方によって不自由を強いられる近所の雑種犬の姿に苦しむ。そうして雪原のなかで動物の生命の根源に再び触れた奥山は、ある真理を悟った。「(我々は)きっと目の前の動物に触れることで、僕たち自身が知らぬ間に覆い隠そうとしていた自らの存在と生命についての曖昧さを剝ぎ取ろうとしている。」 そうか。眼前の温もりを帯びた動物の存在は、生命なるものに輪郭を与え、その重さを、確かさを教えるんだ。それが「生命の理」を知らしめる、ことなのか。 ふっと、私の身体にぶら下がっていた痼が消えた気がした。(ながせ・かい=書評家)★おくやま・あつし=写真家。京都外国語大学卒業。出版社勤務を経て、一九九八年に岩手県雫石町に移住し、写真家として活動を開始。写真集『弁造 Benzo』で日本写真協会賞新人賞、同写真集および写真展「庭とエスキース」で写真の町東川賞特別作家賞を受賞。一九七二年生。