多様性文化の興隆と限界 三谷惠子 / 東京大学教授・言語学・スラヴ語学週刊読書人2022年1月14日号 チェコ・ゴシックの輝き ペストの闇から生まれた中世の光著 者:石川達夫出版社:成文社ISBN13:978-4-86520-056-0 本書は、我が国におけるチェコ研究の第一人者である石川達夫氏による、中世文化の研究書である。石川氏は、過去の著書『チェコ民族再生運動』、『プラハのバロック受難と復活のドラマ』などで、チェコの文化史を近代からバロックへと遡り、さらに本書でそれに先立つ、チェコ文化の出発点ともいえるゴシックの時代に行き着いた。 本書で扱われるテーマは、建築から美術、文学、音楽と多岐に渡り、そこに、この時代の政治や宗教の主役たち――神聖ローマ皇帝カレル4世とその息子ヴァーツラフ4世、カレル4世の文化的後継者ともいえるイェンシュテインのヤン、さらには激しい内戦に至る宗教改革をもたらしたヤン・フスといった人々の事績が絡んで論が展開する。必然的に、内容は複雑な様相を見せるが、それでも本書が、異なるテーマの議論の寄せ集めにならず、個々の作品が有機的に結びついて一つの文化史が提示されているのは、チェコ文化を近代からゴシックまで通史的にみてきた著者の、文化の多様性への洞察力と、チェコで生まれたさまざまなジャンルの作品の間テクスト性を見通すゆるぎないまなざしがあるからだろう。 チェコのゴシックは、本書によれば、西欧各地のゴシックとくにフランス・ゴシックがカレル4世によって持ち込まれ、結実したものである。ここには当時のヨーロッパ情勢をよく知り、国際的な文化のネットワークに参与し、自らの威厳とカトリック教会の威信を高めたカレル4世の知性があった。高い教養を身につけた国際人の治世下に、ヨーロッパで「国際ゴシック様式」と呼ばれたゴシック文化のチェコ分派「皇帝様式」――のちに「美麗様式」と呼ばれる――が生まれ、神聖ローマ帝国の都でもあったプラハで花開いたのだという。 歴史的考察という点で特に興味深いのが、ピエタの発展を論じた箇所である。ピエタはキリスト教を信仰する各地に名作があるが、チェコには、若く美しい聖母がイエスの遺体を抱き、その磔刑による血を自らの衣に浴びた「血痕聖衣の美しいピエタ」があるという。異なるパターンのピエタからこのタイプが作られるに至る経緯を論じたところは、ミステリーを読むようで一気に引き込まれる。なかでも「血痕聖衣の美しいピエタ」が現れた根底に、イェンシュテインのヤンの個人的な体験があったという推論は、歴史の潮流がときに一個人の体験によって作られるということを思い知らされ、感慨深い。 本書では、建築においては、建造物の天井をおおうヴォールト、美術では、マリア信仰の繁栄を背景に展開したさまざまなマリア像やピエタ、そして文学では、『偽医者』と題された、多言語性を含み、聖俗の混淆した戯曲など、さまざまなジャンルにおける多様性が提示される。 しかし同時にゴシック文化の多様性には、他者を排除する容赦ない単一性の主張が内在していたことも明らかにされる。中世のチェコは、ラテン語、ドイツ語、チェコ語などによる著作が現れる多言語状況にあったが、建築や美術のように多様な要素が融合して一つの独自の様式を作り上げた状況とは対照的に、文学では、一連の歴史記述や聖人伝の中に、異文化としてのドイツ語やドイツ的なものへの敵対心と、チェコ民族の誇りの象徴であるチェコ語への傾倒と擁護が強く打ち出されている。多様性を誇った中世チェコの文化においても、多様であればこそ生じうる軋轢、矛盾、対立もまた免れえない要素として常に存在していたのである。 チェコ・ゴシックの時代はちょうどヨーロッパにペストが猛威をふるい、人々が常に死の恐怖と向き合い、芸術の光に慰めを求めていた時代でもあった。コロナ禍に苦しむ現代の我々にとっても、本書を通してみるゴシックの時代は、思いがけない新鮮さをもって目の前に立ち現れてくるといえるだろう。(みたに・けいこ=東京大学教授・言語学・スラヴ語学) ★いしかわ・たつお=専修大学教授・神戸大学名誉教授・スラヴ文化論。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。著書に『マサリクとチェコの精神』(サントリー学芸賞)など、訳書にカレル・チャペック『マサリクとの対話』など。一九五六年生。