――「誰もが生きる権利を奪われない社会」の形を模索した画家――上田早夕里 / 作家週刊読書人2021年6月25日号D・L・ブロッホをめぐる旅 亡命ユダヤ人美術家と戦争の時代著 者:大橋毅彦出版社:春陽堂書店ISBN13:978-4-394-19503-0 一九四二年十二月。詩人・草野心平は、日本統治下の上海で、あるユダヤ人画家の版画集を共著の形で刊行した。書名は『黄包車(わんぽつ) 上海の黄包車に関する木版画六十』。版画の一枚一枚に、草野による日本語と中国語の解説が施されていた。だが、この本は、画家に無断で刊行されたことが、現在では明らかになっている。 版画を作成したのはドイツ生まれの画家、ダーヴィト・ルートヴィヒ・ブロッホ。草野の詩はいまでも日本の教科書に載り、その名がよく知られているが、ブロッホを知る日本人はほとんどいないだろう。しかし、ひとたび、この画家の人生に焦点をあてれば、世界大戦の時代における社会の暗部が、鮮明に浮かびあがってくる。 本書は、この画家の生涯を追うことで、第二次世界大戦下におけるユダヤ人美術家たちの歴史や、日本人とユダヤ人の関係等に光をあてていく。丹念な調査をもとに綴られる記述は、読者を一瞬にしてあの時代に連れて行き、当時の空気を追体験させてくれる。 ブロッホは風景画等も残しているが、庶民や下層階級の人々を描くことに力を入れた画家でもあった。庶民に向ける眼差しの温かさに、芸術を社会運動の武器とする芸術家とは正反対の作風と思われたのか、草野による出版協力には、日本の国策としての意図も滲む。この時代、草野は、汪兆銘南京国民政府宣伝部顧問に就いており、版画集に寄せた解説には、その影響が感じられるのだ。だが、ブロッホは、日本の思惑に左右されるような画家ではなかった。現実との折り合いをつけながらも、人間の命や人権を脅かすものに対する厳しい目を保ち続けた。ブロッホはユダヤ人であるだけでなく、聾唖者でもあった。全体主義政治が弱者を弾圧し虐殺する恐ろしさを、身をもって知っていた人物なのである。 ブロッホは一九三八年(二十八歳のとき)に、祖国ドイツで「帝国水晶の夜」(クリスタル・ナハト)ポグロムに巻き込まれ、ダッハウの強制収容所に収監されている。幸い一ヶ月ほどで解放されたが、これを機にドイツから脱出。上海で暮らし始めた。当時の上海には、財閥系の裕福なユダヤ人以外に、欧州等からのユダヤ系難民も数多く居住していた。後者は、日本人街として有名であった虹口に隣接する区画――共同租界の東端、提籃橋を含む一角に集った。リトアニアの在カウナス日本国総領事館に赴任していた杉原千畝によるビザの発行で救われたユダヤ人たちも、神戸を経由してこの街へ流れ込んでいる。 その後、太平洋戦争開戦の際に日本軍は上海を占領し、一九四三年以降は、ここを含む地域に「上海ゲットー」を設置した。ユダヤ系住民を、監視と行動制限の下に置いたのである。ブロッホ自身も、このゲットー内で生活した。そして、日本の敗戦後はアメリカに渡り、ホロコーストを主題とした作品群を発表していく。日本人とユダヤ人との関係といえば、先に名をあげた杉原千畝や、脱出先の神戸における日本人との交流などを知る人は多いだろう。だが、それと同時に、日本が上海にユダヤ人ゲットーを設置し、住民の監視と行動制限を行っていた事実にまで目を向ける人は少ないに違いない。日本は一九四〇年に、日独伊三国同盟を結んでナチス・ドイツとの協調路線を選んだ。これを機に、ユダヤ人に対する政策が反転した。本書は、この歴史に触れている貴重な一冊である。 本書の後半では、画家であると同時にひとりの人間として生きたブロッホの足跡が、詳しく語られる。作品とは作家の魂の写し絵に他ならない。戦後、ホロコーストを題材とした作品群を発表したのちに辿り着いた絵も含めて、ブロッホは「誰もが生きる権利を奪われない社会」の形を模索し続けた。人間が強く意識して守らなければ簡単に失われてしまう諸々について、ブロッホは作品を通して、いまでも私たちに語りかけてくる。(うえだ・さゆり=作家)★おおはし・たけひこ=関西学院大学文学部教授。著書に『上海租界の劇場文化』『昭和文学の上海体験』(やまなし文学賞研究・評論部門)など。一九五五年生。