――シューマンという現象を、彼が生きた時代のうちに映し出す――内藤晃 / ピアニスト週刊読書人2020年9月11日号シューマンとその時代著 者:アルンフリート・エードラー出版社:西村書店ISBN13:978-4-86706-012-4 本書はドイツの音楽学者アルンフリート・エードラーによるシューマン論だ。著者自身が序文に記しているように、「シューマンという現象を、彼が生きた時代のうちに映し出そうと試みた」もので、従来のシューマン研究を踏まえつつ、彼がその音楽でやろうとしたことを多角的に捉えている。結婚後の日記や、クララ以外の人物とやり取りした書簡など、未邦訳の一次資料からも数多く引用され、シューマンが考えていたことを読者に生き生きと伝えてくれる。 筆者は本書に触発されて《ダヴィッド同盟舞曲集》を弾いてみた。シューマンが評論活動で設定した架空の同盟。ダヴィッド同盟の名は旧約聖書のダビデに由来し、ペリシテ人と闘うダビデに、音楽俗物と闘う自らを投影している。中心人物はシューマンの分身たるフロレスタンとオイゼビウス。シューマンは彼らに議論させる形で小説のような評論を展開した。この同盟の名を冠した舞曲集は、来るべきクララとの結婚の舞踏会を夢想した音楽で、個々の舞曲にF(フロレスタン)とE(オイゼビウス)のサインが頭文字で記され、音楽の「語り手」が交代してゆく。ジャン・パウルやE.T.A.ホフマンの小説に心酔していたシューマンは、自身の音楽でも描写に語り手を設定し、小説のように音楽を綴っていく。 このような「語り手」の交代をいかに表現するか。シューマン特有の筆致は弾き手の多重人格化を要求する。フロレスタンとオイゼビウスでは文体も声色も違う。ピアノに向かう我々は、その狭間で彷徨いながら、シューマンの二面性に溺れる。皮肉なことに、そんな音楽の書き手自身が躁鬱症に悩まされ、自殺未遂騒動の挙句、晩年を精神病棟で過ごすことになる。彼が、クララという立派すぎる伴侶を前にして、社会的に見栄を張って自滅していく過程は、本書の第5章で明らかになる。 シューマンは小説を愛し、その世界に憑依したもうひとつの時間を愛した。この感覚を音楽で生み出すために、彼がとった方法は、固定化した主題や動機ではない、ゆるやかな統一感をつくることだった。《謝肉祭》では、a-es-c-hの音列をリズム的に固定せず、「中心をなす曲想」として随所に仄めかすように散りばめた。「長編小説は読み手の〈人生〉のただ中にはたらきかける力を持ち、それによって読み手の人生そのものが詩情の息吹きに浸される」。彼は、ウィーンでシューベルトの遺稿から発見したハ長調交響曲に、同じ発想を見つけて狂喜した。「作品内部の区切られた時間ではなく、〈どこまでも広がっていく豊かさ〉こそが、小説にも似たシューベルトの作曲法の特徴をなす」。この小説的なものへの希求は、シューベルトの書法にも倣いつつ、交響曲第1番《春》やピアノ協奏曲に結実する。 シューマンの音楽には、このような独自の小説的文体に加え、彼特有の音楽の語彙のようなものがある。いくつもの特定の旋律が作品横断的に顔を出し、彼の音楽のなかだけで通用する、意味をもった言葉を形成するのだ。たとえば、順次進行で下降する音型はクララ。ベートーヴェン《エグモント》の旋律も、登場人物クレールヒェンに因んでクララ。ベートーヴェン《遥かなる恋人へ》の旋律は「さあこの歌を受け取ってください」という原曲の歌詞とリンクした献辞。ドイツ俗謡〈おじいちゃんのダンス〉の旋律は俗物の象徴……。ダヴィッド同盟の精神やクララとの恋愛が複雑に絡み合い音楽を重層化させる。シューマン自身、若い頃に書いた評論をのちに「ダヴィッド同盟ごっこ」と自虐的に振り返っている。理想の音楽の啓蒙に燃えていたシューマン青年は、架空のキャラクターを使って「ダヴィッド同盟ごっこ」に興じた。《謝肉祭》終曲の〈ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進〉では、卑俗な〈おじいちゃんのダンス〉が勇壮なベートーヴェン《皇帝》終楽章の引用に切り替わり、ダヴィッド同盟の勝利を謳い上げる。 だから、シューマンが作り出そうとした音楽の世界は、一曲聴いただけではまるで見えてこない。そこに散りばめられた暗号めいた寓意は、あたかも西洋絵画に描かれる動植物や果物のようでもあり、能動的に解釈することが必要だ。本書でエードラーは、作品をまたぎながらシューマンのメタフォリカルな音楽言語を丹念に解き明かしており、シューマン作品を味わうガイドブックとしても格好の一冊となるだろう。(山崎太郎訳)(ないとう・あきら=ピアニスト)★アルンフリート・エードラー=ドイツの音楽学者。キール大学教授(音楽史)。ザールブリュッケン大学およびキール大学で音楽教育学、ドイツ文学史、哲学を学ぶ。、研究の中心は十八~十九世紀の音楽史および社会文化史と鍵盤楽器音楽の歴史。一九三八年生。