――言葉の「しくみ」で動いている人間という生き物を描くこと――田中和生 / 文芸評論家週刊読書人2021年12月31日号・2021年12月24日合併理系的著 者:増田みず子出版社:田畑書店ISBN13:978-4-8038-0387-7 本書は、増田みず子が一九九〇年代から現在まで書き溜めた、ほぼ三十年分のエッセイを収めている。その間、二〇〇一年に刊行した『月夜見』を最後にして、小説家として二十年間近い沈黙があったが、エッセイの語り口はそうした変化をあまり感じさせない。 あるいはそれは、表題に示されているように時代の変化にあまり影響されない、一貫して「理系的」な小説家として、増田みず子がありつづけていたからかもしれない。エッセイ集は六章構成で、たとえば第三章が「読むことと、書くこと」、第四章が「ライフについて」、第五章が「本棚と散歩道」と題されており、この辺りは小説家らしい文章がならぶ。 もちろん興味深い内容も多いのだが、個人主義の論理を小説的に追求した『自由時間』や『シングル・セル』を一九八〇年代に書いた増田みず子の真骨頂は、やはり「理系と文系のあいだで」と題された第一章だろう。そこから象徴的な一節を引いてみる。 《生き物はどんなしくみで動き、成長し、老化するか。死ぬというのはどういうことか。死なない方法は本当にないのか。そのようなことがわかるのを期待して進学した。/卒業後もわずかな期間だがその分野での仕事をしてみて、あきらめた。やればやるほど、知りたいことが指の間から洩れて遠ざかっていくような気がした。/命というものを丸ごと実感でとらえる方法として小説がいちばん自分に向いている、という気がした。》(「生命と小説」) 増田みず子は東京農工大学農学部出身だが、生命を科学的に研究するのとおなじ態度で小説に向かったと言うのである。なぜなら人間という生き物は、言葉にかかわって「動き、成長し、老化する」。さらに言葉によって「死ぬ」ことさえある。つまり人間の生命をとらえるということは、こうした言葉の「しくみ」で動いている生き物を描くことであり、だとすればそんな人間を言葉で描こうとする小説とは、間違いなく「理系的」である。 この言葉で動かされている人間をとらえることが、生命を科学的に研究することと変わらないという発想は、わたしに言葉を現象としてとらえる「言霊」という太古的な考え方を連想させる。そう、感情や思考を抱え込む人間にとって言葉は客観的にとらえうる現象であり、生命を左右する力の源である。そうした発想が増田みず子の作品の背後に一貫してあったことを知り、わたしはひどく感動すると同時に、むしろあらゆる小説が「理系的」である気さえしてきた。そんな価値転覆を起こさせる文章がいくつも収められている。 ほかに第六章「隅田川のほとりから」は、東京生まれ東京育ちで、長く隅田川の近くで暮らしてきた小説家の横顔がよく見える文章が多く、味わい深い。そこでは、人の垢や汗で濁る汚れた墨田川こそ人の暮らしとともにある川なのだと語られるが、だとすれば建物や住人が大きく変化する東京の変わらぬ本体は水路かもしれないと思った。総じて読みごたえのあるエッセイ集である。(たなか・かずお=文芸評論家)★ますだ・みずこ=七七年「死後の関係」が新潮新人賞候補となり、その後六回芥川賞候補になる。著書に『自由時間』(野間文芸新人賞)『シングル・セル』(泉鏡花賞)『夢虫』(芸術選奨文部大臣新人賞)『月見夜』(伊藤整文学賞)など。一九四八年生。