――パンデミックを前にして、哲学は何を語るべきか――松葉祥一 / 同志社大学講師・哲学週刊読書人2021年10月22日号あまりに人間的なウイルス COVID-19の哲学著 者:ジャン=リュック・ナンシー出版社:勁草書房ISBN13:978-4-326-15478-4 パンデミックを前にして、哲学は何を語るべきか。歴史的分析を含むメタレベルでの現状分析だろうか、それとも即効性はないとしても一定の具体性をもった行動指針だろうか。おそらくこの両極のあいだのどこかに正解があるのだろう。 本書には、ナンシーが亡くなる前年の二〇二〇年三月から六月に、おもにネット上に発表した一一本のテクストが収められている。強引にまとめてみよう(括弧内の数字は本書の頁)。この感染症は、もはや「神罰」のせいにはできない。それは、「技術経済権力」(7)による人間の過剰な「相互接続」(7)という「あまりに人間的な」活動の産物である。われわれは、それぞれの政策を批判するよりも、このパンデミックを「文明の変動」(106)の結果としてとらえ、「土台のない」(120)状態となってしまったわれわれの生を取り戻さなければならない。そのために必要なのは、民主主義によって人間の不確実性を分有し、われわれの人間性、権利、そしてとりわけ自由の意味を発明していくこと(43)である。 残念ながら、この主張を掘り下げるには、本書の各テクストはあまりにも短い。それを補うために二本の補助線の助けを借りたい。一つは、その時々のヨーロッパの感染状況や政策についての情報である。パンデミックに関する議論は、刻々と変化する状況を反映したものにならざるをえないからである。そのために、本書のくわしい訳注が手助けになる。もう一本の補助線は、同時期の他のナンシーの論考である。すなわち、『いま言葉で息をするために』(西山雄二編、勁草書房、二〇二一年)所収の二本と、「ウイルス性の例外化」(『現代思想』、二〇二〇年五月号)である。 これらを読むと、本書は、アガンベンの論考「エピデミックの発明」(『私たちはどこにいるのか?』高桑和巳訳、青土社、二〇二一年所収)を一つの対抗軸としていることがわかる。たとえば、多少唐突に思える、本書の「生政治」や「主権」概念の批判も、実はこのアガンベンの論考を念頭に置いていることがわかる。アガンベンはその論考で、イタリア政府がコロナ禍を利用して、「永続的な例外状況」をつくりだそうとしていると批判している。人々を「剝き出しの生」に還元する政策は「生権力」の行使そのものであり、「永続する緊急事態において生きる社会は、自由な社会ではありえない」からである。 これに対してナンシーは、現状は「生権力」の行使の帰結というよりも、その底流にある「文明の変動」のあらわれだと批判する。「標的を間違えてはならない。問われているのは、明らかに文明の全体なのだ。存在しているのは、生物、情報、文化の面でのウイルス性の例外化のようなものであり、これが私たちを巻き込んでパンデミック化しているのである。政府はこの例外化の哀れな執行者にすぎない。それゆえ、そのような政府を批判することは、政治的な省察というよりも陽動作戦に似ている」(「ウイルス性の例外化」)。 もちろんナンシーは、政府のコロナ対策を受け入れるべきだと主張しているわけではまったくなく、いま哲学に求められているのはより広い射程をもった分析と提案だと述べているのである。だとすると、必要なのは民主主義だという結論も理解できる。「民主主義とは、来るべきものへともに―人民として―関わる方法を見出そうという試みなのだ。民主主義が、未知のものや非-知を解消してくれるような計算や予測を生み出せることではない。民主主義がもたらしうるのは、有限性の重さと非-知とを平等な声で分有することであり、これをもたらしうるのは民主主義だけなのだ」(119)。それゆえそれは、パンデミア(すべての人民)によるパンデミック・デモクラシー、世界市民のデモクラシーでなければならない。その意味で、本書は、広い射程の分析であると同時に、例えば「ワクチン格差」批判といった、きわめて具体的な方針提起としても読める。(伊藤潤一郎訳)(まつば・しょういち=同志社大学講師・哲学)★ジャン=リュック・ナンシー(一九四〇―二〇二一)=フランスの哲学者。著書に『無為の共同体』『自由の経験』『限りある思考』『モーリス・ブランショ』『フクシマの後で』など。