――膨大な史料に基づいて説得的に論証――橋爪大輝 / 山梨県立大学講師・倫理学週刊読書人2021年7月23日号エルサレム〈以前〉のアイヒマン 大量殺戮者の平穏な生活著 者:ベッティーナ・シュタングネト出版社:みすず書房ISBN13:978-4-622-08960-5「検事のあらゆる努力にもかかわらず、この男が〈怪物(モンスター)〉でないことは誰の目にも明らかだった」。「もっと困ったことに、明らかにアイヒマンは正気ではないユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ主義の持ち主でも、何らかの思想教育の産物でもなかった」(大久保和郎訳『新版エルサレムのアイヒマン』みすず書房、七六、三六頁)。 ハンナ・アーレントによるこのアイヒマン像は、「悪の陳腐さ(凡庸さ)」という概念とともに、いまではよく知られているだろう。ナチス・ドイツにおけるユダヤ人移送の責任者として虐殺に関与したアイヒマン。しかし彼は自身の出世に汲々とし、家族を気づかう凡庸な官僚に過ぎなかった――。かかるアーレントの理解は、大きな反発を生みながらも徐々に受け入れられ、人口に膾炙するに至っている。 しかし著者はこう切り返す。「〔…〕アーレントは罠にはまってしまった。エルサレムのアイヒマン・・・・・・・・・・・は仮面以上のものではなかったからだ」。彼の本質を捉えるうえで、見るべきはむしろ「エルサレム以前・・のアイヒマン」なのである(一三―四頁、傍点評者)。本書は「凡庸」なアイヒマンという像を、アーレントには利用しえなかった膨大な史料の分析をつうじて覆す試みである。 本書は大きく分けて、ナチス・ドイツ時代、終戦直後のドイツ潜伏期、アルゼンチン時代、そしてイスラエルによる拘束以後という、四つの時期のアイヒマンを描いている。だがもっとも興味深いのはアルゼンチン時代である。「確信的な反ユダヤ主義者アイヒマン」(三一五頁)の思想が、彼自身の言葉によって明確に表明されているからである。 当時アルゼンチンには、ヨーロッパを逃れたナチの大物たちが集結していた。エーバーハルト・フリッチというナチ・シンパの出版人がデューラーという出版社を経営、『道』という雑誌を刊行して国民社会主義の思想を拡散していた。のちにアイヒマンにインタヴューを実施するヴィレム・サッセンも、この出版社に雇われていた。 こうした環境下で、〈国民社会主義者〉アイヒマンは遠慮なく自分を表現できた。その思想はサッセンのインタヴューや、自ら書き残した膨大な草稿のうちに表明されている。ひとことで言い表すなら、それはあらゆる民族が互いに敵対し闘争し合う「民族主義的(フエルキツシユ)」な世界観である。 「誰もが実際、自分の立場から見れば正しいのである」(三〇三頁)と、アイヒマンは書く。それぞれの民族ごとに異なる正義と真理が存在する(国民社会主義者には「ドイツ的物理学」と「ユダヤ的物理学」の区別さえ存在したという)。こうした前提のもとアイヒマンは、「ただ一つの人種だけが生き残る避け難い人種間戦争で最終勝利を収めることが不可欠」(三〇二頁)だと信じていた。だから「敵の絶滅」は正当化されるのである。一方、普遍的な道徳と哲学はそうした闘争の宿命性を否定するのだから、総じて誤っている。「あらゆる人間が理解し合える可能性を考えるだけで裏切りなのだから、理性も権利も自由も人間の相互関係を貫くものとして役立ちはしない」(三〇四―五頁)。普遍性を否定し、あくまで自らの民族の勝利を目指す。それが、「アルゼンチン文書」から見えてきたアイヒマンの思考の本質なのである。 アーレントが見たのはあくまで、モサドによる拘束後、「役の変更」が行なわれてからのアイヒマンにすぎない。〈エルサレムのアイヒマン〉はこうしたナチとしての自己をたくみに隠し、自己演出を図ったのだ――。以上が、著者の主張の核となる部分である。 著者は、このような新しいアイヒマン像を、膨大な史料に基づいて非常に説得的に論証している。このような人物像の刷新を経てなお、たとえば「悪の陳腐さ」という概念に価値があるのかという問いは、アーレント研究者に課された課題ともなるだろう。 他方で、本書の読みどころはこのようなアーレントとの直接的対話に限られない。たとえばホロコーストを否定する歴史修正主義の起源論(雑誌『道』はその起源のひとつだった)や、戦後ドイツのナチに対する曖昧な姿勢への率直で仮借ない批判も、七百頁の浩瀚な書物の欠かせぬ構成要素であり、けっしてサブテーマといった位置づけに留まらないものである。全体主義的国家の過去に向き合う姿勢を問うという点では、この国の過去と現在を考えるうえでも大いに参照すべき点がある。その意味でも、この大著が平易で読みやすい日本語に訳されたことの意義は大きい。 しかし、普遍性の立場でアイヒマンの思想に真正面から立ち向かう本書は、だからこそある困難をかえって浮き彫りにしたようにも思う。アーレントは仮面に欺かれた。著者は、彼女の「理解」しようとする姿勢そのものが欺かれた原因のひとつであると考えているように見える。「我々は理解したいと願う。そして『世界観のエリート』たちが理解したのは、この『理解を求める気持ち』がたやすく影響を受けるということだった」。アイヒマンのことばは「ユダヤ人絶滅のような犯罪を理解できないが、何としても理解したいと求める人間に橋を架ける試みである」(五〇三頁)。その橋こそ罠である。アーレントが渡ろうとしてしまった橋を、著者は落とす。私たちはアイヒマンを「理解」すべきでない――しかしこうした捉え方は、「人間が理解し合える可能性」を否定したアイヒマンの「民族主義的」世界観と、奇妙に照応してしまうともいえないか。 著者自身も「世界観の闘士」だなどと言いたいわけではない。国民社会主義は、国民社会主義のルール――闘争――を私たちにも課してしまうということなのだ。排他的な思想にたいして宥和的であることはできないからだ。国民社会主義のような思想に対峙すると、同じ土俵に上がらされてしまう。ここに困難と隘路があるように思われる。そしてそうした隘路からの脱出口は、著者もまだ見出していないように見えた。(香月恵里訳)(はしづめ・たいき=山梨県立大学講師・倫理学) ★ベッティーナ・シュタングネト=哲学者。ハンブルク大学にて哲学を専攻。イマヌエル・カントと根源悪についての研究で博士号取得。本書で二〇一一年、北ドイツ文化ノンフィクション賞受賞。著書に『悪を考える』『噓を読む』『醜悪さを見る』など。一九六六年生。