――「鳥の眼」で「蟻の心」をとらえようと開拓民の心情を迫る――岩尾光代 / ジャーナリスト週刊読書人2017年10月27日号満州開拓団の真実 なぜ、悲劇が起きてしまったのか著 者:小林弘忠出版社:七つ森書館ISBN13:978-4-8228-1780-0満州開拓団の悲劇については、膨大な記録が遺されている。だが、時代を共有した世代が退場し、背景説明から始めることに足をすくわれてしまうことが少なくない。風化させてはいけないという願いだけでは先に進めない、語り継ぐむずかしさが、そこにある。 本書は、まず全体図から説き起こす。日本の農民がなぜ、満州を開拓することになったのか。マクロな視点からみれば、壮大な移民政策が生まれた土壌は軍国日本の膨張政策だった。貧しい日本の農民が広大な土地を持てると喧伝したが、それは中国人の農地を強制的に安く買い上げてのことで、のちにその怨みが「悲劇」の拡大につながる。わかりやすい俯瞰図である。著者は、その鳥の眼を転じて、地上の蟻のような小さな点の或る開拓団に焦点をしぼっていく。 表紙に一枚の写真が掲げられている。「主人公」の高山郷の人たちの映像だ。みな、作業着というか、日常着で、手にする長い棒は開墾か農作業に使ったのだろうか。笑顔はない。開拓生活のきびしさを物語る表情だろうが、それでも写真を撮影できた「平和」な時の記念撮影である。 高山郷を取り上げたのは、現代の政治と密接につながっているからだと、著者は冒頭に書いた。ジャーナリストの視線だ。 平成二十六(二〇一四)年一月三十一日、衆議院予算委員会で、民主党(当時)の篠原孝議員が、前年末に強行採決で成立した特定秘密保護法をめぐって質問し、「終戦十日後に起きた長野県(出身者の)高山郷の五百人にのぼる集団自決」について語った。 かつての悲劇が、特定秘密保護法によって蒸しかえされるのではないかと問いただし、安倍首相は「(事件を)寡聞にして知らなかった」と答弁した。この質疑をきっかけに、著者は、満州最大の集団自決事件が「なぜ起きてしまったか」、満州開拓とは何だったのかに正面から向き合った。 昭和十一(一九三六)年、「満州農業移民百万戸計画」が国策として決定された。計画は、日本軍(関東軍)の武力を後ろ盾とする対ソ戦略に組み込まれていた。 満州開拓団は、終戦直前に侵攻してきたソ連軍の攻撃で壊滅、開拓民たちは軍隊に庇護されることもなく、悲惨な逃避行のあげく、亡くなった者は八万人とされる。 著者は「鳥の眼」で「蟻の心」をとらえようと、開拓民の心情に迫る。 「(開拓)団員をもっとも苦しめた」のが「屯墾病」だと著者は語る。「ホームシック、鬱あるいは、集団による外部への攻撃などの症状」であり、それに重労働と自然との闘いが加わるが、この苦しみを乗り越えさせたのが、「自作農になれる」という夢と希望だ。そして、夢は実りつつあった。 昭和二十年八月九日、ソ連軍が突然に満州に侵攻した。開拓団を置き去りにして後方に撤退する関東軍、戦車を連ねて押し寄せるソ連軍の恐怖、中国人の暴動……。広野に逃げまどい、夢を一瞬に打ち砕かれた開拓農民の絶望感が集団自決への道につながったと、著者は行間で伝える。 高山郷の集団自決前夜、黙々とわが子の衣類を繕う母、水たまりで体を洗う母子の姿があったという。評者がかつて中国残留孤児の取材で知った話と重なった。逃走中に捨てられた乳幼児らが日本人だとわかるのは、みな襤褸でおむつをしていたからだという。現地にはない風習だ。日本人の清潔観に託した極限の母心がここにある。 もっとも多くの開拓団を満州に送った長野県の犠牲者名簿がある。困難な調査でまとめたもので、著者は高山郷の死者すべてを「一行一行をじっくり吟味」してデータ化し、その最期を再現した。「名簿こそ歴史の証言者」だという著者の一言は重い。 原稿の校正をすべて終えた直後、著者は八十歳で亡くなった。本書は戦争への道への警告を込めた「遺言」である。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)★こばやし・ひろただ=ノンフィクション作家。二〇〇六年に「逃亡」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。著書に「新聞報道と顔写真」「巣鴨プリズン」「金の船ものがたり」「ニュース記事にみる日本語の近代」「私の戦後は終わらない」など。一九三七年生。