――「常識」が全く異なるヴィクトリア朝時代――石原孝哉 / 駒沢大学名誉教授・英文学週刊読書人2017年10月6日号ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで 上著 者:ルース・グッドマン出版社:原書房ISBN13:978-4-562-05424-4ヴィクトリア朝といえば、英国が世界の4分の1を植民地、ないし半植民地として支配し、世界中の富を吸収して白人帝国主義による覇権を思うがままにした時代である。しかしこれは世界史的な視点であって、英国内部からみれば「7つの海に日の没することなし」という言葉に象徴されるように大英帝国の最盛期であった。 『ヴィクトリア朝英国人の日常生活』は、この栄光の時代の英国の実態を、「日常生活」をキーワードとして活写した稀有な本である。ユニークなのはその切り口で、人々が朝目覚めてから一日を終えて就寝するまでを順を追って紹介するのである。たとえば、一番早起きなのはメイドで、換気のために窓を開けて冷え切っている家の暖炉に火をおこし、掃除をし、自分の朝食を済ませて、家事の仕事に取りかかる。工場労働者など定時出社を義務づけられている者は「目覚まし屋」と契約してドアをノックしてもらった。この仕事は、大金をはたいて時計を買うという初期投資を必要としたが、客はいくらでもおり、よい商売であった。目を覚ました人々の最初の仕事は「立ち洗い」であった。洗面器、水差し一杯の湯、石鹸を用意し、絞った布で身体を拭き、石鹸をつけてもう一度拭き、最後にそれを拭き取るという作業を、服の一部を緩めながら全身くまなく繰り返すのである。それから服を着るわけであるが、女性にとってはこれが一仕事であった。ある程度身分のある女性はコルセットを着けるのが普通だった。男性に比べて筋肉の弱い女性は内臓を保護するための支えが必要だと考えられていたからである。やがてこれは腰をくびれさせることによって女性美を強調することへと変貌し、極端なやせ比べが流行した。もちろん過度な腰の締め付けが身体によいわけはないのだが、美しくなりたいという女性の欲望を止めるのは簡単ではなかった。次にスカートであるが、外出着ともなればふっくらと形よくするための鉄製のフレームが入ったクリノリンが必要であった。はた目には優雅に見えるこのスカートも、多くの難点を抱えていて、その内輪話が実に愉快である。 このような具合に、朝から晩まで、貴族から労働者に至る当時の生活が余すところなく紹介されているが、興味深いのは現代と「常識」が全く異なっていることである。たとえば、「女性は運動してはいけない」という常識である。当時の医学では内蔵は動くものと信じられ、運動によって子宮が移動すると妊娠できないと考えられていた。また、アヘンは「万能薬」として一般的に使用され、なんと赤ん坊を泣き止ませるためのシロップ、鎮静剤、保険薬などが堂々と販売されていた。中にはこれを飲めば「大きく丈夫に育つ」をウリにしているものもあったとか。 本書は、人々の生活を研究対象とする「社会史」に属する1冊であるが、類書と決定的に違うのは単に資料に当たって情報を集めるばかりでなく、著者自身が実際にそれを体験して、その様子を実況報告していることである。かくして、水を使って体を洗わず、乾布摩擦だけで4か月を過ごすとどうなるのか、お湯をバケツで台所から運び、もうもうと蒸気が立ち込める中でかき回し棒で撹拌作業を続けたらどうなるのか、一日中コルセットを締め続けて、夜それを外したらどうなるのか等、経験者ならではの秘話が満載されている。 英国に興味がある人には必読書だが、一般読者が読み物として読んでも実に楽しい本である。(小林由果訳)(いしはら・こうさい=駒沢大学名誉教授・英文学)★ルース・グッドマン=歴史家。専門分野は近世英国社会史。一九六三年生。