――「近世」から「近代」への移行期を駆け抜けた紅葉の文業を総覧する――五味渕典嗣 / 早稲田大学教育・総合科学学術院教授・近現代日本語文学・文化研究週刊読書人2021年3月12日号尾崎紅葉事典著 者:山田有策/木谷喜美枝/宇佐美毅/市川紘美/大屋幸世(編)出版社:翰林書房ISBN13:978-4-87737-455-6 日本の一九世紀後半、文学史上の「近世」から「近代」への移行期を駆け抜けた紅葉の文業を総覧する重厚な作家事典である。一〇〇名以上の研究者が執筆に参加、四〇〇を優に超える項目を「作品編」「人物編」「事項編」「解説編」に区分、最後の「資料編」には「紅葉資料所在案内」「主要参考文献一覧」など、今後の研究に資する情報がまとめられている。 作家に関する文学事典を見る際のポイントは、全体の構成と立項方針である。これまでの研究が描き出してきた作家の個性や、その作家に関わる論点を掘り下げるための工夫が凝らされているからだ。かつてこの事典の版元が刊行した『芥川龍之介新辞典』では、脚注欄に「犬嫌い」「読書の速さ」など、芥川の人物像を彷彿とさせるエピソードが盛り込まれた。昨年刊行の『森鷗外事典』(新曜社)では、いくつかの項目を別の執筆者がそれぞれの立場から書くことで複数の視座が確保されていた。 ではこの事典はどうかとページを繰ると、まず目を惹くのは、見開きのページで一二の項目が並んだ「解説編」の充実ぶりである。「紅葉の雑文」「紅葉の序文」といった項目が立つのは、未だに「文」のジャンルが混沌たるものだった時代に活躍した紅葉ならではと言えるし、「紅葉の共作・代作」では、「今日の「代作」という言葉が持つ背徳の匂いからは縁遠い」(田中励儀)紅葉の多様な協働=共同作業のありようが浮かび上がる。こうした姿勢は、いわゆる創作だけでなく、岩波書店版『紅葉全集』別巻に収録された翻訳や翻案、共作、「閲」「補」など、紅葉が関わった文業を広くカバーした「作品編」の立項方針にも貫かれている。「資料編」の内容も興味深い。関谷由美子による「紅葉筆名一覧」は、書簡も含めて彼が用いた署名を網羅し、小野めぐみによる「「金色夜叉」演劇・映画一覧」は、近代日本を代表するキラーコンテンツの上演と映画化の記録を整理した労作。浪曲や演歌の情報も欲しかったというのは望蜀の言に過ぎるだろうか。 紅葉を起点とする「ひと」のネットワークを辿れる「人物編」も楽しい。紅葉によれば「小説狂文狂詩狂句」から端唄・都々逸のような俗謡まで、あらゆる書きものを「無差別」にかき集めることから出発した『我楽多文庫』は、「文字を書くこと」に魅せられた多くの若者たちを招き寄せた。紅葉たちはそこから「文学」の深みにはまっていくが、異なる人生を選んだ者も少なくなかった。ある者はアカデミズムの道に入り、ある者は地方裁判所の判事となり、タイのバンコクで医者になった者もいた。こうした硯友社同人の「その後」の記述からは、新時代に向かう潮流の中で人生の青春を迎えた世代の人びとが、「文」を楽しみ、「文」で遊び、「文」をめぐって語らった若き日の姿が浮かび上がる。一般の文学事典ではなかなか取り上げられない人物たちの事績を調べあげた各執筆者の労も多としたい。また、硯友社周辺の雑誌や文学叢書企画の記述からは、新しい「文学」というメディアの仕掛け人でもあった紅葉の一面が見えてくる。 文学史という物語は、「ひと」とテクストを抑圧する装置と言える。のちに文学者と認められた人々の言説のみに着目し、その固有名と作品名を列挙していく語りが、いかに多くの認識の転倒をもたらしてきたか。紅葉の「文」をめぐる多様な企ては「近代文学」の前史に追いやられ、彼が関わったテクストは批評や研究からも遠ざけられてきた。そもそも年齢で言えば夏目漱石の方が尾崎紅葉より一つ上だが、こうした事実はどれほど意識されてきただろうか。紅葉の生きた時間を、単に「近代」への通過点と位置づけるのではなく、過去の土台と未来への可能性が衝突したダイナミックな交渉の現場として捉え返すこと。日本語の文学にとって「近代」とは何だったのか、日本の近代にとって「文学」とは何だったのかを考える上で必携の一冊である。(ごみぶち・のりつぐ=早稲田大学教育・総合科学学術院教授・近現代日本語文学・文化研究)