――ドンズロが提示する展望と私たちに委ねられたもの――前川真行 / 大阪府立大学高等教育推進機構教授・社会思想史週刊読書人2020年4月17日号(3336号)社会的なものの発明 政治的熱情の凋落をめぐる試論著 者:ジャック・ドンズロ出版社:インスクリプトISBN13:978-4-900997-74-5社会的なフランスは、現代フランス史において、ひとつの時代を画した。第二次世界大戦における敗戦と占領ののち、ド・ゴール派と共産党を両極として構成された戦後フランスの政治構造は、七〇年代とともに終わりを告げる。六八年の過激派、かつての毛沢東主義者らをも活動家として抱えたロカール率いる統一社会党の社会党への合流であり、ミッテランの登壇である。このとき同時に、ユーロコミュニズムと社共共同綱領、つまり戦後という時代が終わりを迎える。その後に続く国有化政策の失敗と断念以降、フランスは現実の時代を生きることになる。コアビタシオンと呼ばれた保革の共存は、もちろん振動を伴いながらも、政策の収斂をもたらすだろう。 左派の側からみれば、それは、かつて第三共和政期、歴史学(革命史学)と社会学(連帯主義)によって建設された共和主義の理念を、今日的な姿で復興するというプロジェクトとして結実することとなる。ただしその革命は、もはや九三年の、つまり人民主権の革命ではない。そこにあるのは新大陸の「革命」に呼応する革命、人権宣言と立憲主義(共和主義)の、八九年のフランス革命であった。そして、その連帯主義もまた、低成長と高失業のもとで危機にあえぐフランス、植民地喪失後の多民族国家フランスの新たな理念としての連帯であった。 その刊行からほとんど四〇年近い時間の経過ののちに、ようやく日本語で読めるようになった本書『社会的なものの発明』もまた、こうした歴史的文脈のもとに置かれており、私たちはこの書物をそうした時代の証言として再読する必要がある。訳者によって付された、ほとんどひとつの論文ともいえる解説は、こうした要請に応えるものである。 『家族のポリス』(一九七七)と題された前著(邦訳は『国家に介入する社会』(宇波彰訳)新曜社一九九一)において、ドンズロが行った作業は、フーコーが『監獄の誕生』において検討した身体に関わるテクノロジー(解剖=政治学)の分析に、おおよそ対応するものである。ただしそれは装置である前に、ひとつの領域、「社会的なもの」とよばれる、諸力によって構成される空間として提示されるだろう。ここを出発点として、本書では、この「社会的なもの」の作動が、どのように解釈され、政策へと転換され、その介入によって、どのような新たな線が社会のただ中に引かれたのかが分析される。私たちは、訳者による丁寧な翻訳とともに、観念としての社会問題がどのように状況を臨界点に推し進め(第一章)、連帯の概念がどのように新たな線を引き(第二章)、「社会的なもの」という新たな領域が、どのように固有の統治思想を成立させたのか(第三章)をドンズロとともにたどることができる。 とはいえ、私たちにとって重要なのは「社会の動員」と題された最終章であろう。ドンズロにとっての同時代、私たちにとっての「現在の歴史」である。ケインズ政策とともに成立し、福祉国家の危機とともに変容しつつあったフランス社会の診断でもあるこの章において、六八年的なもの、つまり左派ラディカリズムにたいするドンズロ自身の「歌のわかれ」が描かれ、さらに当時フランスにおいて成立しつつあった地方分権、すなわち国家の撤退のもと、「地域」という水準での(私たちの語彙を用いれば)「参画」、あるいは「協同」といった手続きをめぐる新たなエリートたちの「変化」の言説が描かれる。 そのうえで、ドンズロが提示する展望とは、「社会的なもの」をめぐる、新たなゲームに介入し、そのルールを我が身に引き受け、それを新たな統治思想のもとに置くことである。それは同時に、自由主義と国家との関係に変容をもたらすものとなるだろう。ただし、私たちにとって、すでにそれはひとつの歴史である。その意味を探ることは、第三の道、あるいはクリントン以後の民主党、そして社会党解体後の時代を生きる私たちに委ねられている。(真島一郎訳)(まえがわ・まさゆき=大阪府立大学高等教育推進機構教授・社会思想史)★ジャック・ドンズロ=フランスの歴史社会学者・都市社会学者。フーコーが七一年に結成したGIP(監獄情報グループ)の元メンバー。著書に『都市が壊れるとき 郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』『家族に介入する社会 近代家族と国家の管理装置』など。一九四三年生。