――相関主義から抜け出す出口を見出す―― 宮崎裕助 / 新潟大学人文学部・哲学専攻週刊読書人2016年3月11日号有限性の後で 偶然性の必然性についての試論著 者:カンタン・メイヤスー出版社:人文書院ISBN13:978-4-409-03090-5フーコー、ドゥルーズが逝った後、二〇〇四年にデリダが他界し、いわゆるフランス現代思想は終わったと囁かれるようになってすでに久しい。現在も少し下の世代のナンシーやバリバール、バディウといった著名な哲学者が活躍してはいるが、みな老境にある。 ならば、若い世代の哲学者はいったい何を考えようとしているのか。本書はその有力な回答を与えてくれる。著者カンタン・メイヤスーは、一九六七年生まれ。人類学者クロード・メイヤスーを父にもち、哲学的にはバディウの弟子にあたる。その彼の最初の主著となる本書は、二〇〇六年の刊行以来、英語圏の同世代の哲学者たちを中心に影響を及ぼし始め、「思弁的実在論」と呼ばれる思想的運動を産み出すに至った。本書は、いわば「二一世紀の現代思想」の幕開けを告げる一撃なのであり、次世代哲学者たちのプラットフォームのような役割を担うこととなったのである。 とはいえ本書は、一冊の独立した哲学書として、いったい何を目論んでいるのだろうか。それは一言でいえば、カント以後の「相関主義」批判であり、相関主義が多かれ少なかれ斥けてきた、「物自体」を積極的に思考する可能性の原理を打ち立てることである。「相関」とはごく簡単には、事物と私たち(主観)との関係性であり、「相関主義」とはそれを認識の可能性の条件とする立場のことである。「超越論的」と呼ばれるこうした態度は、一八世紀末にカントが確立した思考の枠組みであり、現代まで哲学の「常識」となっている。 対するメイヤスーの哲学的企図とは、デカルトにまで立ち返ることでこの枠組みをいったん白紙に戻し、物自体への到達不可能性に基づくカント=相関主義の諸前提を根本的に問い直すこと、そうして相関主義から抜けだす出口を見出すことにほかならない。だが、そもそもそのような前提をなぜ覆す必要があるのか。一見古典的な哲学史の内側から説き起こされるメイヤスーの立論は、決して職業的な哲学研究者の手すさびなどではない。本書が紛れもなく現代思想の書として切迫したものとなっているのは、二つのきわめて尖鋭な問題設定に貫かれているからだ。 第一に、いかにして自然科学に自立した思考の資格を与え直すことができるか。メイヤスーは「地球が生まれたのは四五億六千万年前である」という命題――「祖先以前的言明」と呼ばれる――を例に挙げている。相関主義は空間・時間の形式を超越論的主観の条件に帰したが、科学が明らかにするのは、人間主体が存在しない時空における事物の発生年代である。それでも自然科学の「客観性」は、相関する主観の枠内に制限された「真理」にすぎないのだろうか。現代の科学は、むしろ逆のこと、相関主義的な制限こそ計算可能な想定内の出来事にすぎないということを明らかにしつつあるのではないか。 第二に、いかにして相関主義者たちの「隠れ」信仰主義と手を切るか。主体の有限性に立脚した相関主義は、第一原因、神、絶対者への合理的正当化の要求を断念し、特定の宗教や信仰の特権化を放棄する。メイヤスーによれば、このことの政治的帰結こそ、現代における「宗教的なものの回帰」である。相関主義は、特定の信仰の絶対視を拒否すればするほど、実践的には、不特定の多様な信仰に対して寛容でなければならなくなる。どの信仰が正統ということはないからだ。実のところ、信仰を敬して遠ざけるリベラルな態度こそ、任意の信仰主義を補完し、逆説的に世界の宗教化(原理主義や狂信も含む)を増幅させているのである。 では、こうして相関主義を批判するメイヤスー自身は、どこへ向かおうとしているのだろうか。まずもってメイヤスーのデカルト主義は、カント以前の独断論的形而上学に後退することではありえない。そうではなくその要点とは、哲学と数学の協働を再開すること、またそれらが前提とする延長実体(事物)を「誠実な神」ぬきの絶対者によって再定義することにある。 本書はそれを次のような企てとして実行する。すなわち、いかなる相関主義も前提とせざるをえない思考の「事実性」を絶対的なものとして取り出し、「絶対的偶然性の必然性」として定式化すること、これである。これは、ライプニッツの充足理由律に抗する「非理由律」、生成変化の最小限の条件すらも破壊するハイパーカオスの原理へと展開されることになる。 私たちの世界の諸法則、たとえば自然法則も論理法則すらもおのずと崩壊しうる。この世界はなんの理由もなく突然変異するという根本的な破壊可能性に曝されているのである。こうした主張はいわば、徹底化されたヒューム主義のような様相を呈し、純然たるアナーキーにも見える。しかし本書の興味深いところは、それが自己反駁的な「なんでもあり」に至るのではなく、ヘーゲル論理学に向こうを張る概念操作によって思弁的原理を提出する一方、このことをさらに数学の知見、とりわけカントールの無限集合論の援用によって論証しようとしている点だ。 カント以来の相関主義の諸問題に大胆に切り込んでいくメイヤスーの論述は明快そのものであり、息を呑むほどにスリリングである。練り上げられた訳文がその筆致を適切に伝えてくれる。もちろん二百頁強の紙幅でそれらの問題が論じ尽くされているわけではない。本書の論証が、実際にどの程度成功しているのかについては慎重な吟味を要するだろう。 最後に特筆しておきたいのは、本書の鋭利で挑発的な数々の問題提起が、多くの対話可能性を開いているという点である。すでにヘーゲル左派からの応答(ジジェク)、後期シェリングとの対質(ガブリエル)、時間論と宗教論をめぐるデリダ派からの反論(ヘグルンド)等があり、また事物の自立的存在をめぐって思弁的原理を打ち出すメイヤスーの主張は、英語圏の分析形而上学、実在論/反実在論の論争との接点を考えさせるものである。 さらに、世界の偶然的な変容可能性や人間不在の世界の思考可能性といった本書の論点は、現代に特有の終末論と結びつかずにはいないだろう。事実「思弁的実在論」の展開は、SFやホラー小説の駆使する想像力に思考を巡らせる一方、気候変動や「人新世」のようなテーマ下で「絶滅」後の世界の探究にまで及んでいる。ともかく議論はまだ始まったばかりだ。本訳書の刊行により、ようやく日本語でも、メイヤスーの問題提起に正面から応答する思考のチャンスが訪れたことを心から歓迎したい。(千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳)(みやざき・ゆうすけ=新潟大学人文学部・哲学専攻)★カンタン・メイヤスー=パリ第一大学准教授・哲学専攻。著書に「数とシレーヌ」「形而上学と科学外世界のフィクション」など。一九六七年生。