――メッセージにも護符にもなりうる躍動する物語群――大塚真祐子 / 書店員週刊読書人2020年9月4日号屋上で会いましょう著 者:チョン・セラン出版社:亜紀書房ISBN13:978-4-7505-1652-3 室内からふいに屋外へ出ると、乱反射するまぶたの裏側で少しずつ認識する風景にまぎれて、文字が浮かびあがる。〈私が去った席に/次に来るあなたへ〉 この帯文は黄と緑のグラフィックが鮮やかな装丁と合わせ、それだけで発光しているかのような不思議な明るさがあり、著者が作家デビューした二〇一〇年から一八年までに発表された九つの短編を収録する、この作品集の印象にも重なる。帯文は表題作「屋上で会いましょう」の一節から採られたものだ。〈63ビルと南山タワーと漢江とが一度に見渡せる素晴らしいビュースポットに立っていても、ちっとも幸せに思えないことってあるよね。あなたはわかるでしょ。あなたならよくわかるはず。〉(「屋上で会いましょう」) 冒頭から「私」は「あなた」に語りかける。「あなた」が誰かは終盤まで示されないが、読者はこの物語をはじめから漠然と、自分への語りとして受けとめるはずだ。物語の背景を明示せず、匿名性を効果的に用いることで、著者は作品と読み手の距離を縮め、作中に読者の入りこむ余地を丁寧に作る。この導入は多かれ少なかれどの作品にも見られ、創作に対する著者の姿勢を如実に表す。 奇妙な表題作だ。ハラスメントが横行する職場に鬱屈し、屋上から身を投げる衝動に駆られる「私」は、頼りにしていた女の先輩(オンニ)たちが立て続けに結婚し、退職したことに絶望する。彼女たちはなぜ突然結婚を決めたのか。先輩から渡されたのは「古代から伝わる呪文書」なる、薄くて黄ばんだノート。「人間ではないもの」が登場する中盤から、物語は現実とファンタジーの間を行き来する。ジャンルや想定にとらわれない自在さが、この著者の魅力の一つにある。 もう一つ挙げるなら、とくに友情をとおして描かれる不可逆の時間と、普遍的なその純度だ。必ずしもドラマティックな出来事が介在するわけではなく、むしろ記憶からこぼれそうな何気ない景色に、自然と自分を重ねてしまう。これは著者の出世作となった『アンダー、サンダー、テンダー』(クオン、二〇一五)の系譜に連なり、本書では「ヒョジン」、「ボニ」、「離婚セール」がそれにあたる。 〈あんたを思い浮かべると、いつも額の横には虹がかかっている。二枚のガラスのつなぎ目が、プリズムのように光を放ってつくった虹。学校前の特別にきれいでもなかったカフェで、ガラス窓がときどきそうやって魔法を見せていた。〉(「ヒョジン」) 孝尽(ヒョジン)とは、紆余曲折を経て東京で製菓学校に通う語り手の名前だ。親しげな語りのなかに、「孝を尽くせ」という意味の名をつけられた娘の苦闘が見える。多くの韓国文学と同様、〝女性たちの生きづらさ〟はこの作品集を貫く大きな前提でもある。 それでもチョン・セランの紡ぎ出す物語が明るいのは、「次に来るあなたへ」の信頼とそこにこめられた祈りがあるからだ。作品の言葉をとおして、数多の「あなた」へと差し出される手のひらに気づいたとき、小説はメッセージにも護符にもなりうることを、国境をこえていきいきと躍動するこの物語群が、鮮烈に思い出させてくれた。(すんみ訳)(おおつか・まゆこ=書店員)★チョン・セラン=ソウル生まれ。編集者として働いた後、二〇一〇年「ドリーム、ドリーム、ドリーム」を発表してデビュー。著書に『アンダー、サンダー、テンダー』(吉川凪訳、第七回チャンビ長編小説賞)『フィフティ・ピープル』(斎藤真理子訳、第五〇回韓国日報文学賞)など。一九八四年生。