――新しい文法で語られるロックの精神――白石純太郎 / 文芸評論家週刊読書人2021年3月26日号70年代ロックとアメリカの風景 音楽で闘うということ著 者:長澤唯史出版社:小鳥遊書房ISBN13:978-4-909812-48-3 ロック音楽を語ることは、困難な営為である。思い入れが強いほど、私小説のような信仰告白になってしまう。一方で楽理的な知識を使った解説では、特別な知識を持つ人間にしか情報は共有されない。つまり音楽批評の場合重要となるのは、音楽から「以前とは違った響き」を文章によって導き出せるかという点だろう。熱量や知識の羅列ではなく、新たな文脈でアーティストを語ること。本書はそれに成功した稀有な例である。 本書は二部構成になっている。第一部は「七〇年代ロックの闘い―思想・文化・政治」と題され、パンクロック登場以前の七〇年代英国ロックについての論が並ぶ。第二部では「アメリカ音楽の闘い―人種・歴史・空間」というタイトルのもと、ノーベル文学賞を獲得したボブ・ディランから、ピューリッツァー賞を受賞したラッパー、ケンドリック・ラマーまで幅広く論じられている。 第一部において特徴的なのは「闘い」という表題に反して、あくまで芸術性を重んじてきたキング・クリムゾンやイエスなどの「プログレッシブ・ロック」や「闘うこと」から程遠いと思われてきたマーク・ボラン(Tレックス)やザ・フーなどが論じられている点だ。ここで振り返らねばならないのは「闘い」の意味だ。六〇年代において音楽の闘争は「反体制」という一言に尽きる。しかし七〇年代の闘い方は違う。著者は七〇年代ロックの特徴を「構築性」という言葉で表現する。例えばキング・クリムゾンの音楽は「安易な自己陶酔」を与えるものではなく、「理性と禁欲で即興を統御し、そこから新たな自己を実現する手段」と位置付ける。すると「闘い」というものの意味は、あくまで音楽産業システムの中に留まりながら「容易に消費させまいとする抵抗」に至る。 ファストな消費への闘いは、第二部においても通底している。加えて一種のアメリカ論でもある論考は、アメリカの「無伝統性」に焦点が当てられている。西欧に比べて確固とした伝統のないアメリカにおいて、詩人は「ひとり世界と格闘」しなければならない。それは孤独な営為であるが、自由もまたある。この観点から著者はディランを「アメリカ詩人」の系譜に連ねる。またアメリカとは他民族によって成り立つ「人工国家」だ。そこには伝統がないので、アメリカ人は常に自己の行為によって、それを作らなければならない。これをロックにおいて実行し、自己のアイデンティティを勝ち取る闘いをしたのが、幾度も再結成されるイーグルスだと解釈する。 以上のように「音楽で闘うこと」を標榜してきた著者は、カウンターカルチャーの抱えるジレンマ、つまり「ロックは所詮ビジネスである」という点を無視していない。メインストリームにいながら七〇年代から変わらず弱者の声を拾い上げ闘争を続けたアーティスト、ブルース・スプリングスティーンに著者は闘いの可能性を賭ける。闘いは終わらず、カウンターカルチャーは生き続けるのである。(しらいし・じゅんたろう=文芸評論家)★ながさわ・ただし=椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授・アメリカ文学・ポピュラー音楽。共著に『日米映像文学は戦争をどう見たか』『ヘミングウェイ大辞典』『ブラック・ライブズ・マター 黒人たちの叛乱は何を問うのか』など。