――「身体で食べる」動物と「脳・心で食べる」ヒト――根ヶ山光一 / 早稲田大学人間科学学術院教授・発達行動学・動物行動学・発達心理学週刊読書人2020年11月27日号美食のサピエンス史著 者:ジョン・アレン出版社:羊土社ISBN13:978-4-7581-1214-7 本書を読んで、ヒトは「食べる」動物だとあらためて思う。もちろん食はあらゆる動物に共通する行為なのだが、彼らの食は単に環境資源の身体資源化である。それを「身体で食べる」ことだとすれば、それに比べてヒトは「脳・心で食べている」。そこには文化が広く深く関わっており、それがヒトの食を独自なものにしている。これが本書の通奏低音である。 著者のジョン・アレンは神経人類学者として、進化から文化、脳機能イメージングまで縦横に筆を走らせ、ヒトの食がいかに学際的な裾野を持つ複合的かつ重要なテーマであるかを豊かに示している。まず冒頭、食にサクサク感を求めるのは人類共通の性向であるとして、霊長類としての祖先が昆虫を好んで食べていたことの名残ではないか、という意表をつく仮説から始まる。この出だしのあと、ヒト化の進行にともなう植物食から肉食への変化、狩猟と脳の大型化の関連というオーソドックスな進化学的議論が続き、それがヒトの食における脳の関与の重要性の伏線ともなっている。 この問題は火・道具の使用、さまざまな食材の取り込みと雑食化、手順と分類による調理、その記録としてのレシピや料理のメニュー、儀式……といったようにどんどん展開する。チンパンジーのアリ釣り行動のように、動物の文化的行動としての道具使用は食と結びつくことが多いが、ここで著者はヒトの食が文化による食の多様化としての「超雑食性」であるという新たなアイデアを提出する(ちなみに、本書の原題は「The om-nivorous mind(雑食性の心)」である)。 食のレパートリーの拡大はヒトの生息圏の拡大を可能にし、また生息圏の拡大がさらに超雑食性を強めた。農耕・牧畜は、環境と食の関係性の一層の自由度拡大であろう。また食の多様性は、なにも食べるものの種類や食べ方が増えるということだけを意味してはいない。食事のマナーや宗教などの場でのルール・タブーなど、さまざまな価値をともなうことでもある。皆で食べることが集団・家族の集いの記憶となり、宴が仲間意識の確認に使われたり、逆に食が異集団排斥の媒体になったりもする。これを言語が支え、それを背後で統合するのが脳であるという主張である。 ただ単に食べるのではなく、いやがうえにも美味しさを追求する動物がヒトなのである。その意味でタイトルを雑食でなく美食としたのは名訳だと思う。しかし食には実は、「美」ばかりではなく陰の面もある。美食は飽食でもあり、快楽追求の果てには、やがてかなしき滅びの匂いも漂う。食の人工化はブーメランのごとく、身体と環境資源の予定調和的関係を崩す要素ともなる。食べないことではなく、食べることで不健康になるというパラドックスがある。肥満、糖尿病、高血圧、高脂血症、心臓病、癌など、その例には事欠かない。その悪弊を予知してあえて禁欲的に食を控えることや、健康増進のため不味なものを我慢して食べることもヒトの食の特徴である。 ヒトの食を考える場合、食の多様化とは逆の大量生産・大量消費・画一化などを特徴とする「マクドナルド化」も顕著である。その一方で、世界各地の飢餓に瀕する人々に食糧支援をしている国連世界食糧計画(WFP)に今年のノーベル平和賞が贈られたことが示すように、人類の食糧事情はますます深刻化している。グローバルに人類の未来を食と結びつければ、喫緊の課題として人口爆発・資源枯渇・環境汚染といった諸問題を忘れるわけにはいかない。この延長線上には、間違いなく美食とは異次元の食の未来図が待ち受けているが、そういったヒトにおける食の困難さのテーマは残念ながら本書では取り上げられていない。 この本は、掲載された図表がすべて脳のイラストであったことが象徴するように、脳科学に基礎をおいたヒトの食文化のエッセイである。著者は最後に心理学の「心の理論」にならい、食という認知・行動システムとして「食の理論」を提唱し、またその発達にも軽く言及している。このような食の近未来における地球規模の難問に対して、はたして食の理論はいかなる打開策をもたらしてくれるのであろうか。(成広あき訳)(ねがやま・こういち=早稲田大学人間科学学術院教授・発達行動学・動物行動学・発達心理学)★ジョン・アレン=人類学者。南カリフォルニア大学のドーンサイフ認知神経科学イメージング研究所、および同校脳・創造性研究所、インディアナ学人類学部の研究員・ヒトの脳構造と進化。日本、ニュージーランド、パプアニューギニア、パラオで文化人類学のフィールドワーク経験がある。