――「誰にでもあり得た」「たしかに存在した人生」――宮崎智之 / フリーライター週刊読書人2020年11月13日号日本蒙昧前史著 者:磯﨑憲一郎出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391227-1「現代は、歴史の大きな転換点である」。そんなことを言われ続けて育ってきた。中学生のときWindows95が発売され、その後のインターネット、スマートフォンの普及と、子どもの頃とは別世界の情報環境を生きている。おそらく携帯電話なしで待ち合わせしたり、恋人の家に電話し相手の親が出て気まずい思いをしたりしたことのある最期の世代ではないか。大学在学中に9・11、三十代手前で3・11を経験した。そして今、新型コロナウィルスの感染拡大により、世界が様変わりしている。 しかし、「転換点」とは、いったいいつのことだったのだろうか。たえず「転換点」が現れては消え、また現れて……を繰り返してきたようにも思える。今回の新型コロナは、私たちの生活様式を一変させたが、この転換点もいつかは過ぎ去ってしまうのだろうか。 磯﨑憲一郎の『日本蒙昧前史』は、グリコ・森永事件、大阪万博、日本初の五つ子誕生、グアム島から二十八年ぶりに帰還した元日本兵といった歴史的な出来事を題材としながら、その時代を生きた人物を描き出した長編小説だ。たとえば、福田赳夫を「キャバレー好きの、小柄な政治家」、三島由紀夫を「『葉隠入門』の作者」、横井庄一を「仕立屋」「元日本兵」などと固有名を伏せたかたちで登場させ、たしかに存在した人生を、当時を生きた人物ならば誰にでもあり得た(かもしれない)人生として描くことによって、時代の大きなうねり、抗い難さを読者に提示している。 しかし、その人生は「誰にでもあり得た」からこそ、「蒙昧」なものでもある。歴史と比べれば、一人ひとりの人生はあまりに小さく、その一人ひとりが生きて形づくっていく時代もまた蒙昧なものだ。「歴史の大きな転換点」を現在進行形で生きている人間なんて実は存在せず、誰もが暗い道理のなかを、手探りで彷徨っている小さな一点にすぎない。取り返しのつかない事態が進行しているその真っ只中で、それと正面から対峙し、過去、現在、未来をつないでいくような転換点を生きていると考えるのは人間の思い上がりであろう。もしくは過ぎ去った歴史を振り返ったときに、そのように文脈づけられる気がするだけである。 本書を読むと、ある意味、そういう蒙昧さがあるからこそ、時代や歴史が進行していったのではないか、とも思わされる。核の平和利用を無邪気に信じ、交通事故の急増も経済の繁栄のためなら致し方ないと受け入れる。 人々が蒙昧であるゆえに進んでいく時代、紡がれていく歴史。本書で描かれている出来事は、一九八二年生まれの評者にとってはほとんどが生まれる前の出来事だが、「前史」という言葉がまさに示すとおり、現在も人々は蒙昧であり、蒙昧なまま時代が流れていっている。むしろ蒙昧さが、時代を駆動しているとも言えるのだ。 だが、そこには「たしかに存在した人生」が必ずある。歴史の大きさと比べれば一人ひとりの人生は小さな一点に過ぎないが、そのかけがえのない一点が積み重なって、歴史が紡がれていく。本書は小説でしかなしえない語り口を駆使して日本の戦後史を描くことにより、歴史に翻弄された一点の人生、誰にでもあり得た小さな人生を、大きな時間軸のなかに浮かび上がらせることに成功している。「(…)我々はじゅうぶんに無知で、蒙昧ではあったが、自分たちの理解を超える事象に対してまで恥ずかしげもなく知ったかぶり振りをするほどは、傲慢ではなかったということなのか?」。これは本書にも言えることであり、この一文によって読者は小説の持つ大きさを実感すると同時に、それを以ってしてもなお、転換点などときっぱり割り切れることのできない、どこまでも蒙昧な現実を知るのである。(みやざき・ともゆき=フリーライター)★いそざき・けんいちろう=作家。二〇〇七年『肝心の子供』で文藝賞を受賞しデビュー。『終の住処』で芥川賞、『赤の他人の瓜二つ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、『往古来今』で泉鏡花文学賞を受賞。一九六五年生。