――〈欲望の資本主義〉に先立つ〈欲望の貨幣論〉――塚本恭章 / 愛知大学教員・経済学博士・社会経済学週刊読書人2020年5月22日号(3340号)岩井克人「欲望の貨幣論」を語る著 者:丸山俊一出版社:東洋経済新報社ISBN13:978-4-492-37124-4年始の恒例番組となったNHK〈欲望の資本主義〉シリーズの特別編として放送された〈欲望の貨幣論2019年〉。岩井克人氏の〈貨幣〉と〈資本主義〉をめぐる概説を軸に構成された当該番組を観た評者自身、雄大な経済思想史を凝縮した世界旅行に誘われたようで、その縦横無尽なる知的内容に深く感銘した。心待ちの本書刊行だった。動的な映像と静的な書物とではインパクトが異なるが、本書を読み進めると、放送直後に余韻として舞い降りた鮮やかな感慨におのずとフラッシュバックし、映像と書物は見事にシンクロナイズすることができた。表題は『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』。かつての『「資本主義」を語る』(一九九四年)の「あとがき」には、「より重要なのは、それらがすべて『語られた』ものであるということだろう」とある。本書も、メディアを介しての双方向的で共同作業的な意味合いをもつがゆえの「語られた」作品。以下、新たに語り直された本書の内容を構造的に追体験してみよう。 二〇世紀を現時点で振り返ったときに浮上する重要な教訓のひとつは、「自由放任主義者も社会主義者も、ともに貨幣に関して十分に思考してこなかった」ことだ。貨幣商品説と貨幣法制説はいずれも誤りであり、後者に依拠するMMT(現代貨幣理論)も、「その名に反して、『貨幣』についての根本的な誤解にもとづいた理論」である。投機商品へ変貌したビットコインは貨幣たりえない。正しい「貨幣」の理解にもとづく正しい「資本主義」理論の再構築が喫緊の学問的課題となる。 実体的な根拠になんら依存せず、「貨幣とは貨幣として受け取られるから貨幣である」といういわゆる貨幣の自己循環論法こそ、氏の貨幣論の基本テーゼである。その先駆であり本書のいう「お尋ね者」であるジョン・ロー、そして二〇世紀のケインズが鋭く見抜いていたように、現実の資本主義経済は「効率性と安定性の二律背反」(氏は「資本主義の不都合な真実」とも呼ぶ)を内包し、ケインズ自身の言葉を借りれば、「絶望する理由も満足する理由もないような中途半端な状態」が資本主義の通常の運命にほかならない。こうした不均衡動学派的な資本主義観から導かれる論理的帰結は、労働・資本市場における貨幣賃金の下方硬直性やさまざまな慣行・規範・規制、政府と中央銀行の諸政策など、「見えざる手」の働きを阻害する〈不純物〉が存在するからこそ、資本主義は「曲がりなりにもある程度の『安定性』」を維持しえてきたということだ。あえて「逆説(ないしは矛盾)こそ真実」といってもよいだろう。 こうした立場と全面的に対立するのがスミスからフリードマンにつらなる新古典派的な資本主義論である。それは、市場の「見えざる手」の地球規模での拡大をつうじて〈不純物〉を除去し、資本主義の純粋化(=グローバル化)を貫徹させ、理想状態としての「効率性と安定性の同時実現」に近づけうるとの経済思想を表明する。フリードマンのケインズ反革命とその自由放任主義的な政策基調は一九八〇年代以降の先進資本主義諸国に導入されていったが、二〇〇八年のリーマン・ショックは、「この壮大な実験が壮大な失敗に終わったことを意味します」と氏は結論づける。長らく存立してきた二つの資本主義論の対立に明確な「決着」がつけられたというのは、本書のきわめて重要なコア・メッセージをなしている。いわば「『アダム・スミスの時代』である二十一世紀とは、アダム・スミスのいう『見えざる手』がその力をますます失ってしまう時代」にほかならないわけである(『二十一世紀の資本主義論』二〇〇〇年)。 だが、経済危機という「現実」から直截的に対立の決着という判断がなされたのではむろんない。不均衡動学派のケインズと新古典派のフリードマンを対峙させたとき、そこには〈投機〉と〈合理性〉をめぐる根源的な「理論」上の対立があり、いうまでもなく、氏はケインズの理論に軍配を上げている。 スミスの経済思想を投機的市場にまで究極的に推し進め、投機こそ市場を安定化させると説くフリードマンの安定的投機論は、「実に巧妙な議論」であり、「天才的であるといってもよい」が、それは牧歌的な投機を想定したものにすぎない。まったく対照的に、ケインズの「美人コンテスト」投機論は、プロの投機家が高次の段階への絶えざる予想をもとにしのぎを削り合う金融市場のモデルを抽出しており、それはまさに「個人の合理性の追求が社会全体の非合理性を生み出してしまう」という〈合理性の逆説〉を表明している。フリードマンのいう「非合理性」でなくケインズのいう「合理性」こそが、資本主義に固有かつ本質的な不安定性を増大させるのだ。〈本質的〉であるゆえにそこから完全には免れえない。さらに氏によれば、そもそも貨幣こそこの世に存在する「もっとも純粋な投機」にほかならず、それはまた、人々に時間的・空間的制約をこえた売買の「自由」を与えうるものでもある。まさにマルクスのいうところの「貨幣はレヴェラーズ」だ。だが貨幣が純粋投機であるがゆえに、そして売買の時間的・空間的な切り離しは新古典派が依拠するセイ法則を破綻させ、マクロ的不均衡をもたらす。貨幣によって存立させられている資本主義経済は本質的な不安定性を必然的に内包するシステムであり、恐慌やハイパーインフレを引き起こす理論的可能性を常にもつこととなる。 純粋な市場経済が貫く自由放任主義的な資本主義とも、貨幣の廃棄と経済の中央計画化を標榜する社会主義とも決別しなければならない。「資本主義」論をめぐる対立構造を内在的に深く吟味し、氏はそこから突き抜けていく。そして「貨幣をめぐる二律背反」の起源としてのアリストテレスへ回帰する。 氏が「人類史上最大の発見の一つ」と高く評価するアリストテレスの洞察とは、「ポリスの思想家」としての透徹した思考そのものが、「貨幣の思想家」をこえて彼を「資本主義の思想家」へと導きながら、ポリスの存立の可能性を生み出す貨幣そのものがポリスそれ自体を崩壊させる可能性を生み出す契機になってしまうという「逆説」のことだ。他者とともに善く生きるための「最高の共同体」であるポリスの発展は、モノを獲得する「手段」にすぎない貨幣そのものを「目的」として欲望する契機へ次第に転換させ、あらゆるモノを獲得できる〈可能性〉を与えてくれる貨幣への無限なる欲望(=資本主義)に帰結していく。人間とはそのような〈可能性〉としての貨幣それ自体を無限に欲望できる存在にほかならない。だからこそ、二〇世紀の「ケインズが流動性選好という言葉を使ったのは、ものすごいことです」(『資本主義から市民主義へ』二〇〇六年)。こうして〈欲望の資本主義〉に先立つ〈欲望の貨幣論〉はアリストテレスの一連の思考に端を発する。古代ギリシャが全面的な貨幣化による最初の「近代社会」であり、そのなかを生き抜いたからこそ発見しえた偉大なる洞察。その人類史的意義を現代のグローバル資本主義のなかでわれわれは〈再発見〉しつつあると主張する氏の語りは、一段と熱気と迫力を増している。 リーマン・ショック後、氏は今こそ『自由放任主義の第二の終焉』が書かれねばならないと論じた。これは公にむけた宣言であり、自らへの新たな決意表明でもあった。真理を探究する真剣な格闘は続く。資本主義がグローバル化しうる必然的根拠から、それに対抗する〈普遍性〉をもつ原理そして倫理という問題へ。「学者とは、解かなければならない学問的な問題に従属している存在」なのだから(『経済学の宇宙』二〇一五年)。 語られた本書は、岩井の尽きることのない学問をめぐる未知への挑戦精神に啓発される作品であり、深く強靭なる思索の力も実感できる。「未来」という時代を先駆けるゆえに「過去(歴史)」を熟知する、これもまた本書の放つ逆説といえよう。(つかもと・やすあき=愛知大学教員・経済学博士・社会経済学)★まるやま・しゅんいち=NHKエンタープライズ制作本部番組開発エグゼクティブ・プロデューサー。慶應義塾大学卒業後NHK入局。一九六二年生。