――たとえば、人の身代りに死ぬ赤い闘魚――九螺ささら / 歌人週刊読書人2021年9月3日号赤い魚の夫婦著 者:グアダルーペ・ネッテル出版社:現代書館ISBN13:978-4-7684-5905-8 本書は、微細な心の揺れや、理性や意識の鎧の下にある密やかな部分を、人間と共にいる生き物を介してあぶりだす、新感覚の五つの短編小説集。「赤い魚の夫婦」ではパリの夫婦が観賞魚に、「ゴミ箱の中の戦争」では少年がゴキブリに、「牝猫」では女子学生が牝猫に、「菌類」では二人のバイオリニストが菌類に、「北京の蛇」では劇作家が蛇に、出会って「意味」を見出だす。生き物はただ生きているだけなのだが、出会った人間が自己投影をするため、そこに濃密な意味が発生してゆく。そして、「象は死期を知って姿を消す」ような、人の為の物語が生まれるのだ。 表題作「赤い魚の夫婦」では、初めての子の出産を迎えるパリの夫婦と、闘魚とも呼ばれる、攻撃的な性質のベタという種の赤い観賞魚のことが描かれる。 娘が生まれてから、夫のヴァンサンと妻のわたしは別れることになるのだが、この過程で雌雄二匹の観賞魚が、まるで夫婦の心の鏡のように機能する。「『ここに入れておくとすごく危険なの。傷つけあって、しまいに殺しあうこともあるんだって。信じられる?』」「家にいるあいだじゅう、わたしは魚たちから目がはなせなかった。何ひとつ見落とさずしっかり見つめていたら、急ないさかいを避けられるとでもいうように。もちろんわたしが肩入れしていたのはメスだった。(中略)ヴァンサンは一見公平そうにふるまっていたけれど、『メスがどうしたって? 生殖を拒絶してるって?』だの『落ち着けよ、兄弟。いらだつのはわかるけど、今の法律は女が自分たちの都合のいいように作ったものだからな』といった、ときおり発する冗談めかしたコメントを聞けば、そうでないのは明らかだった」「とうとうメスが身を隠す場所を手にいれると、わたしはほっと胸をなでおろした」「たわごとと思われるだろうが、わたしたちの魚はわかれわかれになって苦しんでいる、絶対そうだとわたしは思った」「金曜日、もうがまんできず、わたしは突発的な行動に出た。(中略)金魚鉢をかかえあげ、オスを夫婦用の大きな水槽にポシャンと戻したのだ」 ……この後、メスが死ぬと、夫婦は新たにオスを一匹飼う。それまでの雌雄二匹には名前を付けなかったが、新たな一匹にはオブローモフと名付けた。二匹のオスを、夫婦は別々の水槽で飼った。やがて名無しのオスは死に、夫婦が別れるための荷造りを妻が終えたとき、オブローモフは死んでいた……。 三匹の赤い闘魚は、夫婦の心や関係を体現象徴しているように見える。妻のわたしがそう見たから三匹はそうなったのか。それとも、そんな運命を持つ三匹のようなものを、人は未来のリマインダーとして手に入れてしまうものなのか。 娘が生まれる二ヶ月前に最初の雌雄二匹が来て、夫婦の別れの準備が完了したときに最後の新たなオス一匹が死んだ。三匹は、まるで三人の身代り、形代だ。三匹が、家族の誰かが死ぬというような三人の最悪の事態を吸い取って死んだ……。語り手である妻のわたしにはそう見えている。 この、「そう見えている」が、実は心の真実だ。奇跡的で不可思議な無限情報世界であるこの世の、何をピックアップしてどう繫げるか。その「わたしだけの星座」がその人の心の真実で、その星座は誰ともぴったりとは一致しない。不一致は自己同一性で存在理由で、ぴったり一致してしまったら世界は消滅してしまうのだが、しかし重ならなさは、淋しさでもある。だから人は、不一致を自覚しないペットなどの動物に一方的に自分の星座を投影し、彼らに己と同一の星座を見て、幻想の一致を愛撫し安心を得ようとするのだろう。観賞魚は犬や猫より淡白に見えるから、身代りや形代にされるのだろう。 筆者は本書を読みながら、実家で飼っていた様々なペットに思いを馳せた。逃げた手のり文鳥、卵を抱いたまま死んでいたつがいのインコ、冬眠したと思っていたら死んでいた緑亀、父と大量に取ってきて大量に死んでいったカエルになれなかったおたまじゃくしたち、水温設定ミスで、旅行から帰ってきたら死んでいた熱帯魚たち。気が済むまで撫でさせてくれてから死んでいった、シェットランドシープドッグのゴン……。 改めて、彼らを追悼した。 本書を読むと、身近な生き物を看過できなくなってくる。彼らに自己投影してこっちの魂が漏れると、涙がだだ漏れして己が流される危険に陥ることは、よくよく知っているのだけれど。(宇野和美訳)(くら・ささら=歌人)★グアダルーペ・ネッテル=現代メキシコを代表する作家。本書はリベラ・デル・ドゥエロ国際短編小説賞、『冬のあとで(Depués del invierno)』はエラルデ小説賞を受賞。最新作は『ひとり娘(La hija única)』。一九七三年生。