――生きるうえでの「本」の必要性――松岡瑛理 / ライター・「週刊朝日」編集部週刊読書人2021年1月22日号病と障害と、傍らにあった本。著 者:齋藤陽道/頭木弘樹 ほか出版社:里山社ISBN13:978-4-907497-12-5 本書は一二人の書き手が自身の闘病生活とともに、当時の読書経験を振り返ったエッセイ集だ。感音性難聴、筋ジストロフィー、うつ病……疾患の種類はさまざまで、生まれつき障害を持っているケースもあれば、学生生活の途中で急に病を発症したケースもある。既に病から回復した者もいれば、現在も在宅医療の最中という者もいる。 書き手らの経験はどこまでも個別的だが、「病」と「読書」の関係に限定すれば、そこには対照的な二通りの関係があるように読み取れた。一つは、病によって「読めなくなってしまった」パターン。いま一つはその反対に、病がゆえに「読むようになった」パターンだ。 前者には例えば、歴史学者・與那覇潤氏の経験が該当する。大学に勤務し、歴史学者として日常的に本に接していた與那覇氏は、二〇一四年夏、双極性障害(躁うつ病)を突如発症し、文章を読み書きできない状況に陥ってしまう。例えば、「ぼくは日本史を教えるのがしごとだ」という文章に接すると、「ぼ く は日 本史 を教 え るのがし ごと だ」のように単語が分節化され、何度読んでも意味がわからなくなるといった具合だ。一時は読書が「恐怖」とまで化していたという與那覇氏の精神状況を変えたのは、精神科の大学病院を退院した後に通ったクリニックで、月一度開催されていた「ブックトーク」だった。内容は、患者同士が読んで面白かった本を持ち寄り、口頭で感想をシェアするというシンプルなもの。他の参加者からの「さっきの本、面白そうですね」といった言葉かけにより、少しずつ回復への道を歩むことができたという。 私事で恐縮だが、数年前、筆者も與那覇氏と近い状態に見舞われたことがある。進路未定の状態で大学院博士課程を修了した矢先のことだ。朝、目が覚めるや否や将来について延々考え出し、数時間布団を出られない状態に陥った。活字を追うと頭が痛くなり、本を手に取ってもすぐに閉じた。診断こそ受けなかったが、軽度のうつだったのではないかと思う。当時辛かったのは、雑誌で定期的に新刊を紹介する仕事をしていたことだ。心持ちは骨折し、ボールを蹴られなくなったサッカー選手のようなもので、将来が何重にも奪われたように感じていた。当時の記憶が蘇るとともに、あのような経験をしたのは自分だけではなかったのかと、経験を公にしていただいたことへの感謝の念を抱いた。 一方、與那覇氏や筆者の経験とは対照的に、病気を機に読書の楽しさに開眼したケースもある。たとえば頭木弘樹氏のケースがそうだ。現在、「文学紹介者」という肩書で活動する頭木氏だが、意外なことに、もともと本を読むことは苦手。一〇行程度読んでつまらなければ、そこで読書を断念してしまう状態だったという。 転機となったのが入院経験だ。大学生だった二〇才の時、潰瘍性大腸炎という大腸の病を発症し、血便・貧血・腹痛といった症状に襲われ、入院を余儀なくされた。中学生のとき、読書感想文のために手に取ったカフカの『変身』を病院のベッドであらためて読み直したところ、虫になったのに仕事に行こうとして遅刻を気にする主人公が、難病なのにレポート提出を気にしている自身の心理状態にぴたりと重なった。彼の作品にのめり込み、カフカが「血族」と呼んでいたことからドストエフスキーの作品も手に取るようになった。同室の患者に薦めたところその作品に没頭する者が続出し、一時は六人部屋の全員がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読むまでだったという。それまで当たり前に本を読んでいた人が読めなくなってしまい、読書の習慣がなかった人が、突然本を必要とするようになる。このコントラストは何だろう。ひょっとすると病とは、それまでの足跡にかかわらず、ひとが生きるうえでの「本」の必要性を最大限に浮かび上がらせる機会なのではないか、と感じた。「病」と「本」。卓抜な組み合わせを見出した編集者の慧眼に刮目せざるを得ない。(執筆:齋藤陽道・頭木弘樹・岩崎航・三角みづ紀・田代一倫・和島香太郎・坂口恭平・鈴木大介・與那覇 潤・森まゆみ・丸山正樹・川口有美子)(まつおか・えり=ライター・「週刊朝日」編集部)