――この詩人ならではの感性と知性の交差――福嶋伸洋 / 共立女子大学准教授・ブラジル文学/音楽週刊読書人2020年4月17日号(3336号)つれづれ草 批評の小径著 者:ジェラール・マセ出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0369-2詩人であり、写真家であり、思索家であるジェラール・マセのこの本には、日常のささやかな光景、書物からの引用、アフリカや日本といった旅先での出来事をめぐるさまざまな思索が、断章の形で連なっている。そのありようは、マセが引用する十八世紀生まれのモラリスト、ジョゼフ・ジュベールの言葉に、正確に語られているように見える。「私は一冊の書物のなかで、思考が天空の星のように、秩序や調和とともに、ただし、のびのびと間隔を保ちながら、お互いに触れ合うことも混ぜ合わさることもなく、それでもやはり連続し、同調し、釣り合いながら、次々に続いていくことを望んでいる」。 このような断片を集めてどうするのか、という友人の問いかけに対してマセは、「忘却を通して日の光が入ってくるような一時的な小屋を、そこにいると自分が幸せであるような成り行きまかせの漂流する家」を建てるのだと答える。建材は「思い出と引用」であり、ときには「一握りの雪や、藁くずと灰、羽毛と糊」だと。 モンテーニュ、プルースト、レヴィ=ストロースなどフランスの先達の名前がたびたび現れ、またゲーテ、ポー、松尾芭蕉といった名前も現れる本書の思索は、自由に、近すぎも遠すぎもしないところへの軽やかな跳躍を繰りかえす。なかでも書物について、ひいては書かれたもの一般についての断続する思考は、ひときわ目を引く。 病院の待合室でのこと――読書をしようと思い、つけっぱなしになっていたテレビを消そうとすると、居合わせてはいたがテレビを見ていたわけでもない女性に制止される。読もうと思っていた小説を見せると、女性は「ああ! お祈りをしたいのね!」と言う。マセは自問する。彼女が知る唯一の本が祈りの本なのか、それとも「読書とは時代遅れの行為であり、古い宗教のように尊重しなくてはならないのか」と。 おそらく著者自身が理解しているように、この女性の発想は的を外れてはいない。マセにとって読むこととは、「かつて存在したが二度と戻ってこないものに対して注意を向け、忘却を埋め合わせ、私たち読者の存在を頼りにしてくれた人々に愛情を感じること」である。「文字は遠くで語ることを、死後に語ることを可能にしてくれる」が、「死者たちのなかで乾いた言葉は永遠にさまよい続ける」のであり、それは「誰からも返事を得られないか細い声」でしかない。 すぐに溶けて消えてしまう一握りの雪、ほとんど何の役にも立たない、風に吹き飛ばされてしまうだけの藁くずや灰や羽毛から成るというこの本も、同じ運命をたどるかもしれないこと、しかし同時に、そのような忘却の日差しを浴びてこそ安らぎと幸せの場所となりうることを、マセは熟知している。 ワインの香りをめぐる語彙、「皮革や焦げた香り」「赤い果実から猟肉まで」「スミレや西洋サンザシ」「南国の果物」について語る美しい一節に、この詩人ならではの感性と知性の交差を見て取ることができる。その語彙は、変わりやすいが体系化されてもいて、誰もが知っていた昔の詩や、定着しつつあるニュアンスを伴った言い回しのようだ、と言う。同じことはたとえば、ウィスキーやコーヒーのアロマをめぐる饒舌にも当てはまるだろう。 香りのように無限のグラデーションやニュアンスを持つ対象も、わたしたちは手持ちの言葉を使って切り分け、比喩を通して捉えるしかない。その意味で、ワインやコーヒーを味わうときにわたしたちが味わっているのも、詩に他ならないのかもしれない。(桑田光平訳)(ふくしま・のぶひろ=共立女子大学准教授・ブラジル文学/音楽) ★ジェラール・マセ=詩人・写真家。邦訳に『最後のエジプト人』『記憶は闇の中での狩りを好む』など。一九四六年生。