――序奏・間奏・終奏をはさみながら、十二の文章で導く――小沼純一 / 音楽批評家・早稲田大学文学部教授・音楽文化論週刊読書人2020年9月4日音楽が本になるとき 聴くこと・読むこと・語らうこと著 者:木村元出版社:木立の文庫ISBN13:978-4-909862-10-5 うらやましい。うらやましい、なぜに―———。こういう本があってしまうことに、また書けることに、そうした環境が持てることに。 「音楽が本になる」。音楽は本になるのか。音楽はけっして本になどならない。それでいて、音楽はしばしば本やことばと結びつき、音楽そのものを豊かにする。音楽はそれだけで完結しもするが、聴くものがいて、聴くものの内や外にあることばを誘発し、他者へと投げかけられ、またみずからへと戻ってくる。音楽が対話であるとは、音楽をとおして人と人が対話するということであるとともに、音楽を語る、音楽について語ることも対話することだから。 「親密な語らい」を、「ことばではできない親密な語らい」を、音楽や本をあいだに、おこなう。相手はすぐそこにいないかもしれない、すでにいなくなっているかもしれない。こうしたことばがはじめにおかれ、序奏・間奏・終奏という三つの大きなはしらをはさみながら、十二の文章が導かれる。「わたし」は音楽と出版にかかわるしごとをしている。日々の、ふれたちょっとしたことどもから、すこしずつ浮きあがってくるものがある。アルテス・リベラーレス(自由学芸)、R・D・レイン、「全聾の作曲家」の「交響曲」、メディアの変化、音楽を書く/読む、等など。この十年、二十年の音楽のトピックとともに、著者が生きてきた歳月のなかで体感したもの、変わらないもの、変わってゆくもの。語ほんらいの意味でのエッセイ(試み)、モンテーニュが記したようなエッセイに、ここでは、ふれることできる。記されているひとつひとつにおもうところがある。著者よりはすこし年齢がうえになるが、ほぼおなじ時代を生きているからなおのこと。おもうことがある、そこがすでに対話となっている。面とむかってはなすことはまずないにしても。 音楽と本、あるいは、ことばをめぐって記されているのが、うらやましさをおもわせるのは、そのありようが稀有だから、こうした文章を書ける場がいまなくなってしまっているから、なのだろう。音楽をめぐって記されることばはもっぱら情報であり、そのときだけ好奇心や消費欲を満足させれば終わるようなものがほとんど。そうでないなら、理論的なもの、学術的なもの。音楽が人にどうはたらきかけるかをゆっくりとときほぐしてゆくようなことばが、読み手のうちなる音楽がもっている時間に気づかせるようなことばが、欠けている。本のかたちそのものも一役買っている。手への、てのひらへのおさまりぐあい。おもさ。紙の色や質感。文字の種類と大きさ、配置。モノが人に、感覚にうながしてくるものが、ことばとともに、ある。 よけいなことはいくらでも記せるのだが、ひとつだけ。 「序奏」には、それぞれの文章にふさわしいBGMのリストが記されている。「自分が本を読むとき、あるいは原稿を書くとき、たいていは音楽をかけながらのことが多いので」、と。これはだが、ほんとうにBGMにはなりえるのだろうか。文章の前か後に聴くべきものではないのか。こう記しているのはわざとじゃないか。かけながら読んでいたら、読むか聴くか、どちらかになってしまう。むしろ、どちらかをやめてしまうとことをこそ、体験してもらおうという企みなのではないか――。もっとも、読むことも書くことも聴くことも切り離してしかできないわたしのひがみなのかもしれないのだが。(こぬま・じゅんいち=音楽批評家・早稲田大学文学部教授・音楽文化論) ★きむら・げん=国立音楽大学評議員。「ダ・ヴィンチ音楽祭in川口」および「北とぴあ国際音楽祭」アドバイザー。編集を手がけた音楽書は三〇〇点を超える。一九六四年生。