――食と生に対する見方を深める一冊――熊坂元大 / 徳島大学大学院社会産業理工学研究部准教授・環境倫理学・政治哲学・比較倫理学週刊読書人2020年9月11日号肉食の哲学著 者:ドミニク・レステル出版社:左右社ISBN13:978-4-86528-279-5 道徳的な観点から菜食主義に関心を持つ人に、本書は刺激的な読書体験を与えてくれるだろう。著者であるドミニク・レステルの筆致は、肉食の道徳的是非を巡って対立する人びとに歩み寄りを促すような穏当なものではない。感覚を持つ動物を苦しめ、殺すことになるという理由で肉食を拒否する倫理的ベジタリアン(以下、ベジタリアン)を、一方的にこきおろしている。なにしろ著者にかかれば、彼らは「総じて鼻持ちならないほど傲慢で」「バンビシンドロームに取り憑かれている」というのだから、ベジタリアンの道徳的なお説教が鼻につくという人は、著者に喝采を送りたくなるかもしれない。 ただし、本書の議論がベジタリアンをやりこめるようなものかというと疑わしい。著者の批判は、ベジタリアンを胡散臭いと考える人が思い浮かべる疑義や反感と重なるものが多いのだが、文章が攻撃的なだけでなく、議論そのものにも独断的な前提が散見される。たとえば、ベジタリアンは苦しみの程度差についての議論を拒否すると断定しているが、肉食を好む人が多数を占める社会で菜食主義を考えるにあたって、従来の食生活や文化を断念する苦しみと動物の苦しみを比較せずに済ませられるのだろうか。実際、この点に言及しているベジタリアンの議論を見つけることは難しくない。「ベジタリアンは動物を苦しめることと殺すことを一足飛びに同一視してしまう」という批判も、どれだけ妥当なものか疑わしい。このような批判を鵜呑みにしてベジタリアンに論争をしかけても、反対にやりこめられてしまうことになりそうだ。『肉食者の擁護』という原題に反して、著者はベジタリアンが自らの思想を弁護するにあたって、どのような論点を押さえておくべきかを理解する手助けをしているのではないかとも思える。 ところが、本書をベジタリアンのための論争練習帳のように考えて読み進める人がいたならば、ベジタリアンが抱く動物観や自然観、そして人間観に対する深刻な疑念を突きつけつけられて、たじろぐことになるだろう。「ベジタリアンが表明する肉食の嫌悪は、根源的には動物の嫌悪――他人にも、たぶん自分自身にも周到に隠している嫌悪――である。彼らが嫌っているのは肉以上に、ヒト自身と動物なのだ」という著者の指摘は、さらに踏み込んで自然ないしは世界への嫌悪と言い換えうるかもしれない。痛みを与えることへの嫌悪が肉食批判の根本にあるのだとすれば、人間による肉食だけではなく、自然界における肉食も含め、あらゆる痛みを伴う行為や現象が嫌悪の対象となるだろう。もちろん、肉食動物を草食動物へと作り変えるのは、技術的なハードルが高いだけでなく、生態系の崩壊にもつながるので実現困難である。食習慣を変更することが難しい人間以外の動物については肉食を認めるというのがベジタリアンの一般的な態度だろう。しかし、実現可能かどうかはさておき、少なくともベジタリアンが理想とするのは、現実の自然を否定し生物が持つ自然性を拒む、極めて人工的な世界なのではないかという疑念は、簡単にあしらえるものではない。 実のところ著者は、家畜を過度に苦しめ、環境に多大な負荷を与える現行の畜産業に支えられた大量の肉の消費には批判的である。肉食の現状を容認するのでもなければ、ベジタリアンの主張に与するのでもないという著者の微妙な立場と、哲学と動物行動学を専門とする来歴を考えると、本書における粗の見える議論も、果たしてその見かけ通りのものなのか疑いたくなる。もしかすると、私たちと動物および自然との関係について再考させるために、あえて隙を見せて読者引き込み首根っこを摑まえようとしている、という解釈はいきすぎだろうか。 著者の真意は測りかねるが、いずれにせよ本書の議論と対峙することは、私たちの食と生に対する見方を深めてくれるはずだ。また、西洋の菜食主義の歴史をまとめた解説も、コンパクトでわかりやすい。肉食と菜食主義に対して、どのような考え方を持っている読者にとっても、興味深い一冊だと思われる。(大辻都訳)(くまさか・もとひろ=徳島大学大学院社会産業理工学研究部准教授・環境倫理学・政治哲学・比較倫理学)★ドミニク・レステル=哲学者・動物行動学者。動物行動学を起点に人間と動物や機械の関係について論じている。著書に『動物性 ヒトという身分に関する試論』『文化の動物的起源』『ヒトは何の役に立つのか』など。一九六一年生。