――今日では語られなくなったマイヤーに光を当てる――福本修 / 精神科医週刊読書人2021年7月23日号心の病理学者 アドルフ・マイヤーとアメリカ精神医学の起源著 者:スーザン・D・ラム出版社:明石書店ISBN13:978-4-7503-5195-7 本書は、「20世紀前半のアメリカ精神医学を支配していた」とされるスイス出身の精神科医アドルフ・マイヤー(1866-1950)が、いかにしてジョンズホプキンス大学病院精神科の主任教授となり、どのような精神医学的見識と精神医療観を持ち、それをどのように実践に移したのかを、彼が統轄したフィップス・クリニックの診療録に立ち入って詳しく論じた、著者ラムの医学史領域での博士論文に基づいている。マイヤーはそれほど影響力があったのに今日の精神科医たちの間では語られないことが、著者の問題意識の一つである。 チューリッヒ大学でドイツ医学を学び神経病理学と組織学の研究から出発したマイヤーは、フランスおよびイギリスの精神医学に触れ、病理医として独り立ちしてアメリカに移住した。19世紀末のアメリカの精神病院では、収容が主たる機能で、患者の診療が記録されることは一般的ではなかったという。彼は診察と病歴聴取、臨床観察を総合しようとして、その手法をハイデルベルクのクレペリンに学んだ。彼はそれを州立精神病院で活かし、系統的な診療のシステムを導入した。彼はニューヨーク病理学研究所の所長に任命され、州立病院の診療および研究の業務を改革した。そうした業績から彼は1904年にコーネル医科大学精神科教授に就任した。彼はますます研究・教育・研修・組織改革の指導に関わり、名声を高めた。その頃、ジョンズホプキンスは慈善家ヘンリー・フィップスからの資金提供で、臨床研究と教育のための精神科クリニックを開設しようとしていた。マイヤーはそれに最も適格な者として推挙されるに至った。この88床のクリニックでは、13名の精神科医が働き、日々50名以上のスタッフが勤務していた。このような潤沢な治療環境は、当時のアメリカならではのものだっただろう。 彼の臨床実践の背景には、独特の「精神生物学」があった。それは当時発展途上の脳科学と臨床での観察を、「適応行動」という観点を媒介として整理しようとしたもののようである。マイヤーは病理学者として科学的な精査に耐える観察を用意しようとした。その一方で、治癒に確実に結びつく方法は見出されておらず、プラグマティズムに依拠して「誤った精神生物学的習慣」の再調整が試みられた。そうした「習慣訓練」が意味をなすのは、異常が疾患と言うより不適応であって修正が可能であるか、生物学的構造に可塑性がある場合である。しかしそこに生物学的モデルは見当たらず、彼の精神生物学は生物学よりも理念か概念に近いものに映ってくる。ナシア・ガミーは『現代精神医学のゆくえバイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却』(原書は2010年刊)で、マイヤーが疾患を拒絶して治療を交渉の一種としたことで、彼は「何でもさせてくれる人」となり、科学的根拠のない外科的介入を許容した、と批判している。これは、彼の「精神生物学」には他の生物学的見解を弁別するような内実がなかったこと、だから結果として、学術的に彼を後継しようがなかったことを示唆する。 ラムは、主な調査の対象を「フィップス・クリニックの計画と開設初期を含む1908年から1917年に限定」し、主題をマイヤーの「初期の思考と実践についての歴史的解釈」に絞って、彼の仕事全体への評価を保留している。実際ラムは、彼の精神生物学については「明らかにつじつまが合わない疑わしいもの」と書き、臨床に関しては「精神生物学的均衡をもたらすためのマイヤーの理想的な日課は、実際には常に不完全に実行され、日常的に多くの患者には効果がなかった」としている。本書は上記ガミーの4年後の出版だから、精神医学の書ではないにしても、数行触れる以上の見解を知りたかったところである。マイヤーの理論の説明は各章で繰り返されており、著者はその把握に苦労したようである。本書は、水治療のように20世紀初頭に行なわれていたが現在全く行なわれていないものを詳しく紹介しており、歴史書として大変興味深い内容を含んでいる。(小野善郎訳)(ふくもと・おさむ=精神科医)★スーザン・D・ラム=オタワ大学医学史ジェイソン・A・ハンナ講座教授、医学部医学教育革新部助教・医学史。ジョンズホプキンス大学で博士(医学史)の学位を取得。