世界のあらゆる場所に流れていき、人と人、物と物をつないでいく 西崎憲 / 作家・翻訳家・音楽レーベル主宰 週刊読書人2022年4月22日号 「その他の外国文学」の翻訳者 著 者:白水社編集部(編) 出版社:白水社 ISBN13:978-4-560-09888-2 あまりに長期間、翻訳者や作者や編集者という役目を担ってきた弊害だろう。新刊を見るとまずその本がどのような特長をたのみとして出版社の会議を切りぬけて書店に辿りついたかを考えることが多い。言うまでもないが、刊行にいたらない企画のほうが世には圧倒的に多いのだ。 率直に言えば、本書を目にしたとき、いったいこの本の眼目はなんなのだろう? どういう読者を想定しているのだろう、と頭をひねった。しかしその疑問は二、三十ページまで読んだ時点であっけなく氷解した。この本が刊行されたのはおもしろいからだ。 まず斎藤真理子の序文がおもしろい。鋭く的確である。それはまずこうはじまる。 「『その他の外国文学』とは、最大手のインターネット書店が外国文学のカテゴライズに使っている言葉だ。私もときどき、そのカテゴリーのランキングをチェックすることがある。私が訳している韓国文学もその他だからだ」 序文につづく九人の翻訳者のインタビューも細部がことごとくおもしろい。正確にいうとインタビューの再構成なのだが、あるときは翻訳論になり、文芸論になり、さらに自伝的になったり、詩的なニュアンスを帯びたりする。登場するのは以下の九名の翻訳者である。 鴨志田聡子(ヘブライ語)/星泉(チベット語)/丹羽京子(ベンガル語)/吉田栄人(マヤ語)/青木順子(ノルウェー語)/金子奈美(バスク語)/福冨渉(タイ語)/木下眞穂(ポルトガル語)/阿部賢一(チェコ語) 翻訳者たちのインタビューはとにかく好奇心を刺激する。たとえば何人かは意識的にマイナー言語を選んでいるのだが、最初からマイナーを指向するということ自体がすでに興味深い。そもそも海外文芸自体が日本ではマイナーであるのに。 マイナーな言語を目指す理由は九人のインタビューを読みすすめていくうちにあるいは感覚的に納得させられるかもしれない。そしてその納得は話された言葉より九人がとった行動を通して得られるようでもある。 たとえばマヤ語は十分に信頼できる辞典や文法書がないそうで、チェコ語も日本語の辞典がないらしい。だから自前で作るしかない。翻訳するためにまず辞典から作るのである。筆者はそのあたりに少なからぬ興奮を覚える。子供時代の高揚感のような感覚を。 辞典を作るというと一大事業といった印象があるが、それとまったく同じ作業をすべての人間は幼年時代に経験している。世界は言語でできていて、幼児はまず自分なりの辞典を作って世界に参入する。 辞典を作るという記述におぼえる高揚感はおそらく世界を知っていくときに付随するスリルからくるのだろう。幼年時代に触れた地図や鉱物標本や科学雑誌や海外の情報の感触を思いだして欲しい。子供時代の未知のもの、未知の世界を垣間見るスリル、翻訳者は一般に驚くくらい翻訳という作業が好きなのだが、その執着は未知に触れるスリルに起因するのかもしれない。 取材・構成として西川恭平、中澤佑次の名が奥付の前のページに慎ましく書かれている。本書の明るいテイストはこのふたりの尽力ゆえだろう。巧みな仕事である。 翻訳の本質はおそらく「流通」である。本書に登場する九名の翻訳者の行動がそのことを明瞭に表している。翻訳者も翻訳もオーケアノス(世界河)に似て世界のあらゆる場所に流れていく。人と人、物と物をつないでいく。(にしざき・けん=作家・翻訳家・音楽レーベル主宰)