ルソー研究にとって瞠目すべき成果 佐藤淳二 / 京都大学教授・フランス思想史・哲学 週刊読書人2022年4月22日号 統治のエコノミー 一般意志を防衛するルソー 著 者:西川純子 出版社:勁草書房 ISBN13:978-4-326-30309-0 この書物は斬新なルソー論であると同時に、フーコーをも読む野心作である。野心的書物の透明な理解には、障害ないしハードルがしばしば現れる。ここでのハードル、それは用語をめぐって生じ得る読者の側での混乱である。そもそも、「統治」も「エコノミー」も、ルソーの用語や慣用となっている訳語と西川氏のその使用は意味的にズレつつ拡大していくので、読み手には慎重さが不可欠となる。ルソー本人がわざわざ「統治(グヴェルヌマン)」を「法の執行」と定義しているにも関わらず、西川氏は、その「還元」を「やめるところから議論を始めたい」(本書八頁)と告げ、しかもその「統治」を、フーコーの「統治」と関係付ける。そこにはリスクもあろう。なにせ、フーコーの「統治」概念といえば、ネオリベラリズム擁護とも、「真理の勇気(パレーシア)」とも受け取れ、とても一筋縄ではいかない解釈学的難物だからである。だが、最後まで忍耐を保つ読者ならば、西川氏の一般意志論と統治論が、ルソー研究にとって瞠目すべき成果だと納得するだろう。ルソー論の筋に絞って述べておく。 フーコーとの関わりをとりあえず棚上げするならば、本書の斬新さはまさに、ルソーの「統治」概念の縛めを解いたことにある。「法の執行」というルソー自身の定義がかえって過剰な限定となり、そこに含意された重大な意味が見失われてきたこと、従来の読解のこの盲点を、本書は鋭敏に指摘している。これまでの読解では、「社会的かつ政治的自由の維持」(本書二五八頁)という観念が、「統治」からすっぽりと抜け落ちてきた。だから「一般意志」も同一性を強制するものと誤解されがちになるのだ。「一般意志」は、多数性を保持して展開される抗争抜きではそもそも成立しないのだと、西川氏は喝破する。同一性より差異性に力点を置くという本書全体を貫く観点から、「主権」と「統治」の分離というルソー政治理論の見直しが行われるのである。 それは本書最終部で、「一般意志」を「特殊意志」から「防衛する」という独特な発想で展開されている。ここで、「主権」と「統治」の分離という理論の成否は、ルソーの場合、ひとえに「一般意志」の解釈にかかると言えよう。評者自身はかつて、ルソーの「一般意志」に関する言説をタイプ分けし、「神秘性」「共同主観性」「自律自動性」による分類を提案したことがある(本書二二九―二三〇頁の註で言及)。そこで分類されたのは、ルソーを巡る既存言説に過ぎない。では、ルソー自身に即した「一般意志」解釈の実相は、どうあるべきなのか。それは、この三つのいずれのタイプにも収まらないと言うしかない。三タイプをすべて包摂するのか、それとも第四の道を考えるべきか。西川氏の鋭い問題意識は、事の本質に肉薄していく。なるほど、差異性を重視した本書の「一般意志」論は、「市場」などのフーコー経由で入れようとした概念装置に牽引されて、「自動性」の言説タイプに限りなく接近するし、西川氏も実際にそう考えるのかもしれない。しかしながら、他方で、西川氏が繰り返す主張、すなわち同一性に還元されない差異の主張、個人を個人たらしめる核のようなものの称揚、特異性とでも呼びたくなる差異への力強い擁護は、また別の可能性を示唆してはいないだろうか。それこそが、ルソー解釈の本質的な課題そのものだろう。 「平等」の公空間が現出するには「政治」が必要だろうことなど、まだ述べるべきことは多いが、紙幅が尽きた。ただ最後に、ルソーもフーコーも、死を前にして「真理」について多くを語っている事をどう考えるかという問いが残る。統治は自己の主体性の解釈学とその真理に関わることで、ついに円環を閉じたのかもしれない。二人ともにか? ここでもまた問いは開かれたままだろう。(さとう・じゅんじ=京都大学教授・フランス思想史・哲学)★にしかわ・じゅんこ=東京大学大学院総合文化研究科教務補佐員・法政大学および國學院大學兼任講師・一八世紀フランス思想・政治哲学。