疫病の世界史 上・下 粥川準二 / 叡啓大学准教授・社会学・生命倫理 週刊読書人2022年5月6日号 疫病の世界史 上 著 者:フランク・M・スノーデン 出版社:明石書店 ISBN13:978-4-7503-5267-1 筆者はいつも、何か新しい事態が起こったときにはそのことに関する本、とくにその歴史を記した本を買い集めて読むことにしている。今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックに際しては、たとえばウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』(中央公論社)をまず手に取ったのだが、対象の時代が古すぎるなどの理由で、すぐ役立てることができなかった。それに対して本書は、同書とよく似た題名ではあるのだが、進行中の新型コロナ・パンデミックを歴史的に理解するために、非常に有益である。 本書は、医学史家の著者がイェール大学の講座で話したことをまとめたものである。二〇一八年に初版が発行され、新型コロナ・パンデミックを受けて「まえがき」と「終章」が加筆された新版が二〇二〇年に発行された。その全訳が本邦訳である。 本書の目標は「疫病の歴史に興味をもち、微生物からの新たな挑戦に人間社会がどれだけ備えられているかを心配する一般読者や学生に、議論をしてもらえるようにすること」だと著者は書く(上巻一〇頁)。その目標を達成するために、本書は、すべての感染症の歴史を網羅しているわけではない。対象は、西ヨーロッパと北アメリカに大きな影響をもたらした感染症に絞られている。それらをリストアップすれば、ペスト、コレラ、天然痘、結核、ポリオ、 発疹チフス、赤痢、黄熱、HIV/エイズ、エボラということになる(評者としては、インフルエンザが抜けていることが少し残念である)。 そしてそれら各感染症の「社会と歴史と文化」への影響が深く考察される。その過程で、ヒポクラテスに始まる医学史のスーパースターたちが多数登場する。ガレノス、フィルヒョー、ベルナール、レーウェンフック、センメルヴェイス、スノウ、パスツール、コッホ、リスター、ジェンナー…といった面々である。感染症は、数ある病気の一分野でしかないはずだが、感染症の歴史は、医学の歴史のうちかなりの部分を占めるようだ。 評者は新型コロナ・パンデミックが始まって以来、感染症の「社会的」側面に注目してきた。感染症の拡大は、その原因となるウイルスや細菌の特徴だけに依存するのではなく、貧困や格差と呼ばれるその社会の脆弱性に応じて起こる。つまり貧しい者は豊かな者よりも、感染症にかかりやすく、重症化しやすく、死亡しやすい。そのうえ差別の対象にもなりやすい。そして新型コロナウイルス感染症パンデミックも例外ではない、と(拙稿「COVID-19時代のリスク その不平等な分配について」、『現代思想』二〇二〇年五月号、など)。 ところが本書によれば、そうした感染症の「社会的」側面には、例外もある。たとえば「ペストは大半の感染症と違い、貧しい者ばかりを襲ったのではない。災いは裕福な者にも貧しい者にも無差別に降りかかったので、 ペストの到来は最後の審判の日の到来のようだった」(上巻五六〜五七頁)。 結核も然り。「消耗病〔=結核〕患者の社会的身分の内訳には、感染経路がきわめて大きな影響をおよぼしていた。なぜなら空気感染を通じて広まる病気は必然的に「平等」な、誰にでも届くものとなり、たとえばコレラや腸チフスのような社会病――糞口経路を通じて伝染する、明らかに貧困と関連のある病――にくらべ、特権階級の人びとの生活に入り込む可能性が高かったからである」(下巻二六〜二七頁)。 とはいえ、本書はその結核を扱った章において、それへの対策の中で「社会医療、社会事業、社会医学、社会問題、社会的ケア、社会階級、社会病、社会的展望」といった「社会」というキーワードを含む一群の用語(概念)が浮上してきたことも、しっかりと指摘している(下巻九六頁)。 なお終章によれば、著者はイタリアのロンバルディアに滞在中、新型コロナ・パンデミックに遭遇し、自身も感染したらしい。コロナを扱ったこの章は未完のような印象がある。当然のことながら、感染症の歴史に「完結」はないのだろう。(桃井緑美子・塩原通緒訳)(かゆかわ・じゅんじ=叡啓大学准教授・社会学・生命倫理)★フランク・M・スノーデン=医学史家。イェール大学歴史・医学史名誉教授。著書に『The Conquest of Malaria: Italy, 1900-1962』など。