愛情以外の何かに突き動かされた交情 陣野俊史 / 文芸評論家・フランス文学者 週刊読書人2022年5月13日号 ヒカリ文集 著 者:松浦理英子 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-526746-2 いきなりだが、小説の中へ入ろう。学生劇団NTRの劇作家で演出家だった破月悠高が亡くなって、劇団員だった妻の久代が未完成の戯曲を見つける。その戯曲は、昔劇団に所属していた人々が久しぶりに集まって、かつての仲間のヒカリについて語る、という趣向だった。久代は、やはり同じ劇団に属していた鷹野裕に続きを書くことを提案するが断られ、元劇団員が次々に文章を寄せる、という形式に落ち着く。小説は、こうした経緯説明のあと、破月悠高の戯曲、鷹野裕、飛方雪実、小滝朝奈、真岡久代、そして秋谷優也の文章をつなぐ形で出来上がっている。ヒカリとはいったい誰か、どんな存在だったのか。右の劇団員たちのほとんどは、ヒカリとつきあっている。男女を問わず。性的な関係があった者もいる。彼ら・彼女らにとってヒカリとは?という問いがずっと小説に響く。 松浦理英子の小説について書くことは容易ではない。理由は、松浦本人が自作について語ることをまったく厭わないからだ。本作についても、松浦は「心を使わない人」というエッセイを書き(「群像」二〇二二年三月号)、「脱愛情中心主義へと」と題された長いインタビューを受けている(聞き手は瀧井朝世、「群像」二〇二二年四月号)。これ以上どんな言葉が必要なのだろう、などと書くと、批評家失格ときっと叱られる。ただ松浦の自著を語る言葉には大切な概念が幾つか含まれている。その一つが「心を使わない」だ。 心を使わない、というのは私たちの日常では、あまり馴染みのない言葉である。だが松浦がこの言葉で指している人、つまり「心を使わない人」の存在に気づき始めたのは、二〇〇〇年代の初めだったという。他人や物事に気を遣わないという意味ではなく、「心の一部もしくは大部分に蓋をして感情や人間味を封じ込めているかのように、心をフルに使わないで生きている」(前掲の松浦のエッセイより)という意味。 ヒカリはその代表的人物である。他人に優しく傷つけたくないと思って暮らしている(だから好意を示されればすぐに親密な関係になる)のに、相手が男性でも女性でも恋愛が長続きしない。使う言葉はとても優しいが表面的。つきあっていた相手は、ヒカリに関係を切られた直後は苦しむが、時間が経つにつれ、別れた苦しみや痛みよりもヒカリと一緒にいた時間の「幸福な記憶」のほうが心身に残る、そんな存在である。ヒカリたちが演劇をやっていたことも、小説にとって重要な要素だ。人間関係が濃い。エチュードと称して、即興でセリフのやりとりをする。そのなかで印象的な言葉のやりとりが行われる(松浦の小説の最大の特徴は会話である)。 小説の主人公が不在で、周りの人間が記憶を紡いでいく書法だけを取り出せば、とくに新しいわけではない。だがこの書き方は、ヒカリを際立たせるうえでもっとも有効なものだろう。思い出す側の個性があらわれるように文体も書き分けられている(たとえば会話の最後に句点のある者とない者がいる)。 読み終えて、ふいに襲われるのは、ヒカリとヒカリの周囲の人々との交情は、果たして「愛情」だったのか、という根本的疑念である。それはどんなに性の匂いがしようと(この小説からほぼしない)、魂の接触としか言いようのないものだったのではないか。むろん松浦は「魂」などというスピリチュアルに解釈される語彙を用いたりはしない。ヒカリという存在が、ときに生身をみせつつ愛情以外の何かに突き動かされていたことを、小説で実践してみせているのだ。 ただし、この言い方自体、「脱愛情中心主義」的だ。松浦が自著の解説に用いている語彙である。松浦の書評はかくも難しい。唯一、私にできるのは、この小説を読みながら、李良枝の代表作『由熙』を思い出したことを書き足すくらいか。もういなくなった主人公を懐かしく思い出しながら、その存在の激しさを記憶のなかで反芻する小説だった。主題も登場人物の数もまったく異なるが、不在の主人公を想起する、その強度において通底しているように思えた。(じんの・としふみ=文芸評論家・フランス文学者)★まつうら・りえこ=作家。「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞しデビュー。著書に『親指Pの修業時代』(女流文学賞)『犬身』(読売文学賞)『最愛の子ども』(泉鏡花文学賞)など。一九五八年生。