表裏一体である「きれい」と「きたない」 廣川和花 / 専修大学教授・日本近代医学史 週刊読書人2022年5月13日号 〈洗う〉文化史 「きれい」とは何か 著 者:国立歴史民俗博物館・花王株式会社(編) 出版社:吉川弘文館 ISBN13:978-4-642-08406-2 日常生活の中で「手を洗う」ことの社会的意味は、コロナ禍の二年余で大きく変わった。もちろん科学的な根拠があるから行うのだが、かといって人は科学的合理性のみに基づいて種々の感染予防行動をとるわけではない。純粋に自分からの/への感染予防効果を期待してというより、むしろそれを行うことが日本社会における「マナー」となっているがゆえに、多くの人は外出時にマスクを着用し、入口でアルコール消毒をしてみせる。これを「同調圧力」とするとらえ方もあるかもしれない。ただし衆目にさらされて行うことが比較的少ない手洗いは、マナー的要素が強い感染予防行動よりも、やや実利寄りの行動にも思える。こうした微妙な差異も含めて、各種の感染予防行動は変容を続ける「文化」である。病原体に対する科学的知見は瞬時にグローバルに共有されるにもかかわらず、それぞれの歴史や風土を背景にもつ各国・地域の感染対策のローカルな「文化」の違いは大きい。それが流行状況とも無関係でないとすれば、その「文化」の背景を問うことには現代的な意味があろう。 本書は、歴史のなかに存在してきた無数の「文化」としての「洗う」行為を考察した論集である。といっても、執筆者の多くは必ずしも入浴や疫病、公衆衛生にまつわるテーマを専門にしてきた研究者ではない。「洗う」という「お題」を設定することで、それまでは読んでいても目に留まらなかったような史料が俄然意味を持ちはじめ、歴史の知られざる一面が浮かび上がってくる。共通の「お題」が設定されるタイプの共同研究は、うまくいったときにこのような効用をもたらすものなのだろう。 その結果、第Ⅰ部では古代日本で東大寺写経生が申請した衣の洗濯休暇(1章)、ほこりと煤にまみれた江戸での豊後国臼杵藩士の暮らし(2章)、「貰い風呂」など明治大正期の農村のお風呂事情(3章)、日本の入浴習慣やオランダの公衆衛生がその植民地へと展開していくさま(4・6章)、児童への歯磨き啓発と衛生用品マーケティング(5章)といった、数々の興味深い「洗う文化」が描き出される。第Ⅱ部ではより広い意味での「洗う」行為としての砂によるきよめ(1章)や、「洗う」ことの前提にある日本独自の触穢思想(2章)が論じられる。こうした確かな裏付けのある話が、親しみやすい語り口で一般読者に提供されることの意義は大きい。「昔の人はどのくらいの頻度でお風呂に入っていたのだろう?」といった素朴な疑問にも答えてくれるし、加藤茶の「歯、磨けよ~!」(これがスポンサーのライオンへの配慮だったことはよく知られている)が実際に子どもたちの歯磨きを促していたなどという楽しいエピソードにも事欠かない。「きれい」とは何かを問うことはしかし、何が「きたない」とみなされてきたのかを問うことと表裏一体である。「きれい」が「きたない」とみなされたものを差別し排除してきた歴史を、研究者による各章は所与の前提としている。しかし企業側で書かれたコラムは、必ずしもそのような前提を共有してないように見受けられる。そこでの「手洗い」や石けんの位置づけは、衛生商品による「衛生」や「清潔」を素朴に称揚していささか進歩史観的でもあり、各章で論じられた多様な「洗う」行為とは必ずしも切り結んでいない。このあたりに余裕のない国での産学共同研究の難しさも感じないではない。たとえば産業革命期のイギリスで石けんが大衆に普及していく過程を論じた永島剛は、衛生状態改善の一方で石けんの増産がまねいた公害発生に触れることを忘れなかった(「石鹸がもたらした人びとの生活の近代」樋口映美編『歴史のなかの人びと』彩流社)。本書を出発点に、人間社会における「洗う」ことの意味が日本社会のなかでより懐深く問われていくことを期待する。(ひろかわ・わか=専修大学教授・日本近代医学史)